2004.12 December
特集 「読むこと」の新たな展開
【論文】(1)  読む思考を引き出す学習活動を 岩永正史
一 高校の読みの授業、小学校と比べると

 筆者は、児童期を中心とした文章理解過程の発達やそれに基づく教材・授業のあり方などの研究をおもな仕事にしている。国語の授業に触れるのも小学校が中心になる。そんな中で、中学・高校の授業に触れて感じることは、年齢が上がるにつれて、授業が静かになっていくことだ。
 対照的と思われる小学校と高校の授業を比べると、次のような違いがあるのではないか。
 小学校の授業が、まず児童が活動し、それを教師がまとめる形で進行するのに対し、高校の授業は、教師を中心に淡々と進行する。「静かさ」はここで生まれる。
 小学校の授業では、読み手は個々の児童である。一人一人が活動し、そこに教師が関わることで読みを深めようとする。これと比べれば、高校の授業では、読み手はむしろ教師の方である。教師が読み手のモデルになり、読み進む過程で用いる知識や技術、生じる疑問などを発問として投げかけ、読み取るべき内容を解説していく。生徒はその思考についていく。生徒も、もちろん、読んでいないわけではない。だが、教師と同じ読みの構えを持てた生徒は読み手の思考を深く体験できるが、教師と違う興味や問題を感じたり、基本的なつまずきがあったりする生徒はついていけない授業になる。
 ここで重要なことは、国語科が読んだ結果(解釈)を知る教科ではないということだ。まず重要なのは、読む過程で言葉と関わり、一貫した解釈を作り上げるための知識や技術を身につけることの方だ。つまり、一人一人の生徒が活発に読みの思考をはたらかせていることが重要になる。どうしたら、教師の読みについていけたか否かに関わらず、生徒の読みの思考を引き出せるのだろうか。

二 読みにはたらく思考を引き出す実験

 一例として、説明文を読むときにどんな思考がはたらくのか、岩永(二〇〇二A)を通して見ていこう。これは大学生(筆者の授業の受講者)を対象にした実験だが、高校生でも結果に大きな違いはないはずである。
A  地下水の流れは非常にゆっくりしている。ひょっとすると、私たちは江戸時代に降った雨を使っているのかもしれない。
B  昭和四九年秋、多摩川で洪水があった。水はなかなか引かなかったが、これは森林が水を蓄え、少しずつはき出したからだ。森林がなければ水は一度に流れ、被害はもっと大きくなったはずだ。
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C  昔から、「日照りに不作なし」といわれた。なぜか。森林や水田の土には水分が含まれていて、農作物に水を届けたからだ。
D  大きいダムがあればだいじょうぷと思うかもしれない。だが、ダムの土には森林の土のはたらきがない。肩代わりは不可能だ。
E  昭和三九年夏、東京は大干ばつに見舞われた。ダムも干上がった。このとき人々のぎりぎりの飲み水をまかなったのは、多摩川上流の森林から湧き出た一日に三十万トンの水だった。
F  森林は水を蓄え、少しずつはき出す。このはたらきがないと日照りには水が使えず、雨が降れば洪水になる。森林のおかげで私たちの生命は守られている。
G  森に入って土を踏んだことがあるだろうか。森林の土を踏むと、弾力があり、水がしみ出す。この土に水の調節機能がある。しみ出る湧き水の集まりが川。しみ込まず地表を滑り落ちるのは洪水。
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注: 紙面の都合で原文を要約したため、実際とは表現が異なる。
 資料1(上)に示したのは、「森林と水」(昭六一年〜平一二年版・学図小四。なお、昭五九〜平二年版・教出中一にもほぼ同じ「森林のはたらき」がある)から七つの部分を抜き出し、これに空白部二か所を加えてランダムに配列したものだ。これを使って、大学生に文章を構成させる。文章では「私たちの生命の一端は、森林のはたらきによって守られている」という主張をすることにする。文章を作る際、A〜Gには使わないものがあってもよいが、二つあるXは必ず使わねばならない。しかも、Xは、その内容を自作しなければならない。また、構成した文章について、なぜそのようにしたのか理由も記述させた。どのような文章ができあがっただろうか(一緒に課題を考えてみてほしい)。そこには、彼らがこのパラパラな説明文を読んで、理解の表象をどのように描いたかが如実に表れていた。

三 説明文の大きな展開を読み取る思考

 調査対象七七名の回答を見ると、できあがった文章の構成には七〇のパターンがあった。実にさまざまな構成の文章ができあがったわけだ。ところが、一見さまざまな構成の文章ができているようでいて、よく見ると、「ある共通点」を見出すことができた。そこからは、大学生が説明文の何をどう読もうとしているかをうかがうことができる。
 まず、わかることは、彼らのほぼ全員が、説明文を、説明の開始、説明、それを受けた終末というように、大きく三つの部分でとらえようとしていることだ。
・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)