2005.5 May
特集 「論理」の指導機会を探る
【特別寄稿】  「論理意識」を持とう 井上尚美
一 高校生の実態と教師の論理意識

1 高校生の実態
 先頃実施されたOECDの学力調査で、日本の十五歳の言語能力は14位だったということが大きく報道され、教育関係者にショックを与えた。
 十年ほど前の1993年と96年の二回、ある出版社が高校の先生方に対して調査したところによると(二回ともほぼ同じ結果だったという)、高校生の日本語能力の低下の中で特に問題と思われることとしては、コミュニケーションの力不足からくる人間関係の希薄化が心配だということであった。
 そして、その対策として必要と思われること(複数回答)には、「論理的に考える力を養う」を挙げる高校教師が140校中63校と、最も多かったという。以下、「語彙を増やす」(58校)、「書く力を高める」(56校)となっている。
 ところが、具体的に対策を講じている93校に、その対策の内容(複数回答)を聞くと、「漢字力」が77校と最も多く、「書く力」61校、「読む力」52校、次いで「語彙」「論理的に考える」「文法的に正しい日本語」「話す力」「聞く力」の順で、まだ漢字の練習や読み書き中心の国語科の色彩が強いことがわかったという(『日本語力に関するアンケート集計結果」創拓社 1997。なお、この内容は1997・6・12付毎日新聞に要約されている)。
 こうしたデータからも、現在の状況が十年前とほとんど変わっていないことがわかる。
 すなわち、二十一世紀における日本の国語教育には、論理的な思考能力を育てる指導が強く求められていること、それにもかかわらずその具体策に各校とも苦慮していることが、はっきり見てとれるのである。
 では、指導する側の国語教師は、どのような論理意識を持っているのだろうか。

2 国語教師の論理意識
 国語教師の中には、論理に対するアレルギーの見られる人もある。間瀬茂夫は、このことについて次のような興味深い調査結果を発表している(間瀬茂夫『国語科教師による説明的文章の論理のとらえ方』鳴門教育大学研究紀要〈教育科学編〉第12巻 PP.29-39 1997)。
 間瀬によると、8人の中学教師と1人の教師志望の大学院生(いずれも鳴門教育大大学院)にインタビューしたところ、彼らの多くが、形式的な論理に対して批判や反発を感じていることがわかったという。
 すなわち、論理というのはマイナスのイメージがある言葉で、理屈っぽいとか、形式張った、強引に相手を押さえつけるためのテクニックだという意識を持っているのである(しかし一方では、論理に対して憧憬、あるいは強迫観念を持っていることも指摘されている)。
 この調査は人数がごく少ないので、このことから直ちに一般化はできないが、もしそういうアレルギーがあるとすれば、それは彼らが学生時代に論理の教育をロクに受けて来なかったという事実から説明できるであろう。
 国内の様々な学力テストの結果を見ると、国語科では論理的思考力の不足が毎回指摘されているが、それは指導する教師の意識が変わらないからであり、また、教師に論理的思考を指導する能力をつけさせて来なかった、日本の教師教育に問題があるからである。つまり、論理的思考を教える「先生の先生」が少なかったからである(学生時代に受けた「国語科教育」の授業を思い出してほしい)。

二 「論理」の指導機会

1 論理に興味を持とう
 何事も、一番大切なことは、そのことについて興味を持つということである。論理を指導する目的は、生徒に、論理に対して関心を持ってもらい考え深い人間になってもらうことである。そのためには、論理というものはおもしろいものだという実感を、彼らに持たせることが大切である。
 「アキレスと亀の話」「クレタ島のウソつきの話」「飛矢不動の話」など、昔から哲学上の難問(アポーリア)とされている話や、三段論法の誤用の例など、生徒はおもしろがるに違いない(野崎昭弘『詭弁論理学』中公新書 1976など参照)。また、シャーロック・ホームズがワトソン博士について、アフガニスタン帰りの軍医だと見抜いた話、更に「海王星」が、実際に発見される以前にその存在が推定されていた例なども、興味を示すであろう。
 しかし、生徒に興味を持たせるためには、まず、教師自身が、鋭い論理意識(物事を論理という観点から見ようとする心構え)を持つことが求められるのである。
 いま、漱石の好きな教師がいたとする。彼は折にふれて生徒に漱石の話をするであろうし、作品を読んで聴かせることもするであろう。熱心に話す姿に接して、生徒の中に漱石ファンをつくり出す可能性も多いであろう。
 同様に、教師がまず論理に関心を示し、そのことを機会をとらえて話せば、生徒たちも興味を示す者が増えるにちがいない。
・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)