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2005.11 November |
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| 特集 文学教材・授業の再構築 |
| 【論文】 |
文学教材はなぜ必要なのか
〜教材価値論を問い直す |
鶴田清司 |
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一 文学の授業の存在意義
文学教材は、作品世界の構造・形象・主題をとらえることを通して想像力や認識力や表現力を育てるだけでなく、人間の生き方や社会のあり方を考えるヒントを与えてくれる。そもそも文学とは人間の真実や本質を虚構の方法によって描き出すメディアである。さまざまな願望や悩みを持っている生徒にとって、文学言語を媒介にして作品世界を豊かにイメージ体験すること、登場人物の行為や事件の意味を追求することを通して、自己を見つめ直すことに文学教材固有の意義がある。
ところが一方では、国語科教育を文学教材の呪縛から解放せよという主張もある。
一つは、実用的な国語科教育を求める立場である。教育課程審議会の「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め」るという答申(1998年)はその代表的なものであった。その結果、教科書の文学教材数が削減されたことは周知の事実である(この問題点については、拙論「言語技術教育の教科書づくりに向けて〜現行制度と教科書編集のアポリア〜」『日本語学』2003年6月号を参照)。
もう一つは、学習指導要領に基づいて制度化された読解指導を拒絶する立場である。
難波博孝氏は、文学教材の意義については認めつつも、現在の国語科教育という枠組の中でそれを称揚・推進することに対して警戒感を表明している。マクロレベルでは、文学が公共性や価値規範を大切にしようとする新自由主義的な道具として利用される可能性があること、ミクロレベルでは、文部科学省や国立教育政策研究所が例示しているような「評価規準」に基づく指導事項に学習を押し込める危険性があることである(『日本文学』2003年8月号、5〜7頁)。
小稿では、以上の情勢もふまえながら、文学教材はなぜ国語科において必要なのかという問題について考え直してみたい。その際、筆者が提案している〈教材内容〉〈教科内容〉〈教育内容〉の三分法に基づいてアプローチしていきたい(拙著『文学教材の読解主義を超える』1999年、明治図書を参照)。
二 文学の授業における〈教材内容〉〈教科内容〉〈教育内容〉の区別
1 〈教材内容〉とは何か
〈教材内容〉とは、教材固有の内容をさす。作品名と作者名はもとより、表現されている内容(筋・人物・事件・主題など)について理解することが目標である。いわば「教材を教える」という立場である。ただし、これだけでは特殊で個別的な知識にとどまる危険性がある。「メロスがどんな人物か知ったからどうなの?」「李徴が虎になる話を読んだからどうなの?」という問題である。
この批判を乗り越えるためには、〈教材内容〉固有の価値を学習者(さらに広く国民)に明示する必要がある。そうしないと、文学教材は要らないという主張に呑み込まれてしまう。文学青年を増やしても意味がない、世の中には他に学ぶべき大切なことが沢山あるということになる。先の教育課程審議会答申はそうした考え方に基づいていた。
2 〈教科内容〉とは何か
〈教科内容〉とは、1960年代の民間教育研究運動における「科学と教育の結合」という考え方に基づいて形成された概念である。つまり、各教科の基礎となっている諸学問の体系(科学的な事実・概念・法則・技術など)が指導事項の中心になる。国語科(文学領域)で言えば、文学表現の原理・方法およびそれに基づいた「読みの技術」がそれにあたる。〈教材内容〉よりも一般的・法則的な内容である。ただしこれを強調しすぎると、そうした科学的・客観的な知識・技術というものが文学領域に存在するのか、仮に存在したとしてもそれを全員の子どもに教える必要があるのかという批判があり得る。
こうした批判を乗り越えるためには、先と同様に、抽出した〈教科内容〉の価値をきちんと示す必要がある。そうしないと、文学教材の指導は要らないという主張に呑み込まれてしまう。文学作品は好きなときに好きなように読めばよい、読んでいれば「読み方」も自然と身につくということになる。
実際にこうした批判はあった。言語技術教育に対する批判の多くはこれである。また、言語技術教育を唱導する側からも、スキルを取り立てて教えるという発想に反対する人もいる。宇佐美寛氏の「読んだらよいのだ」はこれにあたる(『国語科授業における言葉と思考』1994年、明治図書)。
3 〈教育内容〉とは何か
〈教育内容〉とは、〈教科内容〉よりももっと広く、教科の枠組みを超えて指導するものである。挨拶や返事の仕方から見方・考え方、学び方に至るまで広範囲の学習内容が想定される。文学の授業では、特に人間としての生き方(人生観・人間観)といった価値目標の部分も含まれてくる。それは学問・科学という領域を超えて、文化・社会・道徳などの広範囲な指導事項に及ぶ。ただし、この立場を突き詰めていくと、「国語科の学習がそんなに広がってしまっていいのか」「文学作品を生活指導や思想教育の道具に使っていいのか」といった批判があり得る。
こうした批判に対しては、逆に国語科が「ことばの教育」に限定することがなぜいけないのか、ことばの力を育てること以外の目標がなぜ必要なのかということを説明する必要がある。そうしないと、文学教育は特定の主義・主張や思想・感情を植え付けようとするものだという主張に呑み込まれてしまう。
実際にこうした批判はあった。例えば、渋谷孝氏の『文学教育論批判』(1988年、明治図書)はその一つである。
・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)
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