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2006.02 February |
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| 特集 日本語力の総点検 |
| 【特別寄稿】(1) |
日本語力の基本的な考え方 |
蒲谷 宏 |
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はじめに
「日本語力」をどう捉え、どう育てるか、ということを考えていくためには、まず、〈「日本語」をどう規定するのか、日本語の「力」をどう捉えるのか、そして、その「日本語力」を「育てる」とはどういうことなのか〉という、実は必ずしも自明のことだとは言えない、これらの前提を明確にしておく必要がある。その上で、これからの「日本語」の教育/学習のあり方を考え、「日本語力」を育てるための教育/学習の実践とはどのようなものになるのかを検討していくことが重要になると言えるだろう。本稿の趣旨は、そうした日本語力に関する基本的な考え方を示そうとする点にある。
1 「日本語」をどう捉えるか
まず、〈「日本語」をどう規定するのか〉ということから考えていきたい。この問いは、〈日本語とはどういう性質の言語なのか〉を追究することではなく、そもそも〈言語というものをどう捉えるのか〉という言語観の問題につながっている。
筆者は、「言語とは、主体の行為である」と規定している。この規定は、時枝誠記の「言語過程説」に基づくものではあるが、「言語過程説」の根本にある言語観を継承するものであって、時枝の思想やいわゆる時枝文法などを受け継ごうとするものではない。
この「言語とは、主体の行為である」とする言語観のことを「〈言語=行為〉観」と名づけているが、「行為」というのは、より厳密に言えば、〈音声・文字を「媒材」とした「表現行為」および「理解行為」、すなわち「コミュニケーション行為」)のことである。
もちろん、音声・文字以外を「媒材」とする「コミュニケーション行為」もあるが、それらは「言語」であるとは規定しない。
〈言語=コミュニケーション行為〉と捉えると、「日本語」も一つの〈コミュニケーション行為〉ということになる。これは、常識的な「日本語」の規定とはかなり隔たったものであろう。また、〈日本語を用いたコミュニケーション行為〉ではなく、〈日本語自体がコミュニケーション行為である〉という点も理解しにくいかもしれない。
しかし、ここでは、日本語=行為だと規定できるかどうかを議論することが目的ではない。「日本語」を「コミュニケーション行為そのもの」として捉える言語観に立つと、一体何がどう見えてくるのか、変わってくるのか、ということがより大切なのである。
日本語=コミュニケーション行為として捉えると、まず、コミュニケーションを行う「主体」が重要なものだということが必然的に浮かび上がってくる。コミュニケーションの「主体」なくして、「日本語」は成立しないからである。そして、日本語を主体のコミュニケーション行為だと考えると、それは、〈いつ・どこで・だれが・だれに対するコミュニケーションなのかといった枠組み−「場面」(「人間関係」と「場」の総称)〉が重要になってくる。同時に、〈その主体は何のためにコミュニケーションをするのか−「意図」〉も、重要な概念となる。さらに、〈何を伝えようとするのか−「内容」〉、〈どういう方法で伝えようとするのか−どういう「コトバ」(「言材」)で、どういう「文話」(文章・談話の総称)で、どういう「表現形態」、「媒材」(音声・文字)で〉ということが問題になってくる。
もちろん、日本語をどう捉えるのかに関わらず、コミュニケーションを考える際には、このような枠組みが必要になることは言うまでもない。しかし、重要な点は、〈日本語を用いてコミュニケーションする〉という捉え方では、日本語そのものを考えるときにはこうした枠組みが切り離されてしまうということである。この点において、コミュニケーションとは別に日本語を捉えるか、ある主体のコミュニケーション行為そのものが日本語だと捉えるかの差異は、極めて大きいものとなる。
なお、この枠組みにおいては「コトバ」というのが日本語なのではないのか、という疑問が生じているかもしれない。日本語をコミュニケーション行為として捉えたときに、そのコミュニケーション行為を支えるために様々な「コトバ」が必要になることは言うまでもないが、「〈言語=行為〉観」では、それらの「コトバ」のことを「言材」−厳密には、〈ある主体において成立する音概念と概念・表象との回路〉−と名づけ、それを「日本語」とは規定しない。
「言材」=「日本語」と規定してしまうと、コミュニケーションとしての日本語の姿が見えなくなってしまうことをおそれるのである。
2 日本語「力」をどう捉えるか
日本語=コミュニケーション行為として捉えることによって、日本語「力」も、〈コミュニケーション行為を行う能力〉だということになる。
・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)
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