2006.08 August
特集 国語教師の力量アップ大作戦
【特別寄稿】  「言語生活の向上」に向けて 倉澤栄吉

 この特集号に執筆を依頼されたとき、「国語教師に求められる力量」という執筆テーマであった。「執筆の視点・内容」のキーワードは、〈日々の授業 国語力 授業の工夫 生徒理解の深化 幅広い研修や専門的な研究〉等々であった。
 〈「国語教師の力量アップ」という目的をもとに、夏休みの研修活動にも資する〉ともあった。
 筆者は、長年の体験をもとに現下の問題点を照射しようとした。ただし、「脳科学・基礎学力」の問題についてはふれていない。

一 読解力と読解指導

 「読解力」とは、「文または段落の意味および言外の意味について十分に知る力」(『国語学辞典』平井昌夫執筆)とある(昭和30年時枝誠記代表国語学会)。この解説の意味が今、ゆれている。ゆれは、PISAから始まった。従来の読解力とは異質の解釈が始まったと思われている。各種の教育情報誌が「読解力向上」を主題として特集を組んだりした(一例『総合教育技術』2005年9月号)。この中には誤解された情報もある。PISAのテストの結果が公表され、日本の国語の読解力が低下した、というのは一つの事実だ。が、それは「読解力テストの結果」なのであって、読解力全体を包む言及ではない。読解力を狭くとらえてはならない。読解力の中には、テストその他で表面に現れる能力の結果以外に、読みの感性面――例えば堀井令以知の『感性の言語学』(近代文藝社、1996年)に示されたような、語感、文体、言語意識の如きものは調査されていないし、今後の調査に期待することすらしにくいのである。
 PISA調査では、読解力を「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発展させ、効果的に社会に参加するために……」とあるが、この「ために」のあとに続く「言語生活」では、「書かれたテキスト」だけではなく、個人が出会うさまざまな「情報」と「場面」が想定される。だから、読解力を狭く考え過ぎないようにしなければならない。本誌2006年5月号別冊『いま求められる読解指導開発マニュアル』には、その種の各種テキストの具体例が挙げられている。その多くは「受信・発信」における「テキスト依存の言語生活」であって、「テキスト依存以外の言語生活」としての読解の場や情報についての開発は、今後の研究と実践に任されている。
 従来の読解指導においてはどうであったか。言うまでもなく、テキスト以外の読みの指導において、文・文章・文字・語句以外の言語的情報はどのように扱われていたかを考えるには、読書関係の文献、例えば、社会学の発想からする読みの研究(内田義彦『読書と社会科学』岩波新書)や読書指導に関する論著(『読書はパワー』S. D. Krasshen・長倉・黒沢・塚原共訳・金の星社、1996年)を例として挙げるだけで充分であろう。
 古い文献で恐縮だが、昭和23年刊行の私の処女出版『國語学習指導の方法』(世界社)において私は、読解力に関してその時期と方法について
○はやくよむこと。
○まちがわずによむこと。
○よんだあとでそれについて、考えてみること。
○よんだことを、調べたり、実験したりしてみること。
○よんで、おもしろいなと思い、またそのつぎや、別の本をよみたいと思うこと。
を列記した。PISAのテストのねらいはこの中に含まれている。
 垣内松三先生は、近代の国語教育の理論と実践の本格的指導者として、最初の学者である。我が国近代の国語教育実践理論は、垣内に始まり西尾実先生へと継がれていく。垣内理論を代表する著書は、言うまでもなく國文學叢書第一巻の『國語の力』である―垣内理論は学力論から始まって、教材(文化)論に終わる。『國語の力』の書名が示す読解力は1930(昭和5)年の『國文學體系』不老閣書房(1229頁の大作)で止めをさす―。
 読解力の概念規定のために、本誌読者が8月の余暇に、手にとることをすすめたい文献の第一は、『国語教育史資料 全六巻』(東京法令出版)だ。その中でも、第三巻、運動・論争史(滑川道夫編)が面白い。この中の阪本一郎の『読書指導―原理と方法 昭和二五年』―阪本の読書指導及図書館教育論は今も生きている。「生活指導」という大きな円の中にまとめられている(資料1)ではないか。教科としての国語科そして読書指導との関連がこの形で示されているのだ。
 資料1のこの図は、教科としての「文学」を位置づけたカリキュラムの典型的なものの一つ、と言えよう。

二 学習過程論

 私は、昭和31年刊行の『読解指導』のあと、青年国語研究会の協力で、『読解指導の研究』(新光閣書店) I ・II を刊行、更に『これからの読解読書指導』(国土社、1971年)を出した。この本の中味に、今日もなお訴え続けなければならない「過程論」、「否定的媒体重視論」を展開した。それは、小・中・高を通じて、読解力指導のきわめつけの方法として「発問・挙手・指名」の方法が長い間続けられてきたことへの反省からであった。問を発し、手を挙げさせ、指名するという方式は、「指導過程」ではあるが、その前後に「学習過程」がある(『学習指導要領』を『指導要領』と言いならわしているが、もとの「コース オブ スタデイ」は、学習のコースの意味であるから、『学習要領』という漢語にすべきはずのものである)。
 手を挙げる習慣になじまない生徒がいる。小学校の時の「ハイハイ病」からは自由になっている生徒でも、目立つことを避けようとする。手を挙げさせる方法は、「わかろうとしているかどうか」「わかろうとしてもわからない」生徒達のためにある。「わかった」生徒に挙手させるのではなく、「わかることのできない」生徒を知るために存在すると考えた方がよい。
 大村はまの「優劣のかなたへ」は、学習者の側に立っている。指導の側からは見えないところがたくさんあって決めかねることも多い。大村は、学びつつある生徒の中へ入っていこうとした。結果を見るよりも過程を知る方がはるかに難しく、かつ、大事である。読解指導よりも、「表現過程の追跡」の方がずっと難しい(『作文教育における評価 文化庁 国語シリーズ 66』に国分一太郎の「生活勉強綴り方教室進行過程」を紹介したことがある)。
 学習過程は昭和33年版の『学習指導要領国語科』の教科目標の末尾「言語生活向上を図る」の文言に明示されていた。この発想と同じ構図は、井上敏夫の「生活読み」にも見られ、授業を改善する立場から、今後実践家の永遠の課題として悩まし続けていくことであろうが、単元学習論の基底に是非必要な発想なのである。
 「結果よりも過程を」という考え方が根本にあるべきだ。今日の経済界における「数値目標」重視の価値観は、教育界の本流となってはならない。その意味で 目標―内容―評価 を一体とする単元論のうち、評価を過大視する風潮には警戒を怠らないようにしたい。

・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)