2007.02 February
特集 「国語力」としての漢字・語彙指導
【特別寄稿】  若者と漢字 ―漢字の将来をになう者たち― 京都大学大学院教授
阿辻哲次

 通勤電車の中で、興味深い光景にでくわした。四人掛けの席に向かいあってすわっていた女子高校生が、さかんにおしゃべりしている。別に聞き耳を立てていたわけでもなく、大きな声で話すものだから、いやでも話が耳に入ってくる。どうやら近いうちにテストがあるようで、彼女たちはどんな問題が出るだろうか、という話をしており、やがて漢字の書き取りの話になった。
 一人が「ねぇ、『キンユウ政策』の『ユウ』って、どんな漢字だった?」と友人に聞いた。すると聞かれた側は即座に携帯電話を手に取り、親指をめまぐるしく動かして機械をあやつり、「ほら、この字だよ」と相手に画面を見せていた。
 なるほど、と私は感心した。最近では携帯電話をカメラとして使うのが当たり前になってきているようだが、なんと電話はカメラだけでなく、国語辞典としても使えるのだ。これなら重くてかさばる辞書をカバンに入れる必要もないし、電源を入れることができる場所なら、どこででも「辞書」が引ける。決していいこととは思わないが、それにしても便利な時代になったものだ。
 携帯電話はもはや必需品である。そしてそれは電話をかけたり受けたりする道具であるだけでなくなっている。わずかでも時間があれば、携帯電話からメールを送る人がいま激増していて、電車の中はもちろん、街頭で立ったままでさえ、たくさんの人が電話からメールを送っている。メールを使うのは数年前まで若い世代が中心だったが、最近では熟年層にも広がっているようで、私の知人には、都会に暮らす孫と毎日メールをやりとりするために一念発起して、機械の操作を覚えたという女性もいる。
 電子メールは、これまでのコミュニケーションのあり方を根底から変えるものとなった。英語の「mail」ということばが使われていることに象徴されるように、それは郵便による手紙と同じく一方通行として発信されるものだが、郵便物が相手に届くには少なくとも一日前後の時間を必要とするのに対し、電子メールはほとんど瞬間的に相手に届く。
 メールを受けとる側も特別の操作は必要でなく、機械に電源を入れていれば勝手に受信するから、メールを受信する側が電車に乗っていようが食事をしていようが、いかなる状況においてもまったく気にせずに、発信者はメールを送ることができる。だから、キーを操作したり着信する時に音が出ないように設定しておけば、たとえ授業中や会議中であっても、教師や上司に気づかれずにメールのやりとりができる。教室に静かに座っているものだから、てっきりこちらの話を聞いているものだと思っていたら、友人とメールのやりとりをしているという学生が、私の勤める大学にもかなりいる。まったく油断も隙もない時代になったものだ。
 ところで、いまのように携帯電話が普及する前に「ポケットベル」という機械があったことを覚えておられるだろうか。だいたいマッチ箱くらいの大きさで、カタカナと数字で書かれた文章をやりとりできるというものだったが、一部の女子高生たちがコミュニケーションツールとして使ったことが注目を集めた程度で、一般社会にはほとんど普及しなかった。
 どちらも同じように電話回線を使ってメッセージを送受信できる機械なのに、携帯電話とポケベルの普及の差はいったいどこに原因があるのだろうか?
 それはもちろん、その機械で漢字を使えるかどうかという点にある。漢字が使えない「メール発信機」など、多くの日本人にとってしょせんはオモチャにすぎず、最初から相手にされなかったのである。
 しかしコンピューターや携帯電話で漢字が使えるようになってから、「電子の手紙」をやりとりする人が激増した。携帯電話とは本来は電話をかけるための機械であるはずだが、いまではむしろメール送受信機として使っている方が多いかもしれないと思うほどである。
 しかしこのように頻繁にメールをやりとりする人たちが、かつて「筆まめ」と呼ばれたようなタイプの人々であるというわけでは決してない。事実はむしろ逆で、携帯メール愛好者には、これまで葉書や手紙を書くことなどほとんどなかった人が圧倒的に多いと見受けられる。
 手紙だけでなく、学校で課せられた作文や読書感想文、あるいはレポートなどを避け続けてきた人たちが、いま電話機を使って、朝から晩まで、本当に寸暇を惜しむということばがぴったりするほど、漢字かな交じり文の日本語を書きまくっているのである。これはいったいどういうことなのだろう?

・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)