一 はじめに
国語科の授業づくりを考える上で、「退屈する生徒を作らない」という本誌今月号の視点は実に面白い。
昨今、趨勢は「楽しい授業=わかる授業」であり、「わかる授業」は学力の向上を具現化するという捉え方がすっかり定着してしまっている。もっと言い進めるなら、今や「楽しい授業こそが生徒の学力を向上させ、それはさらに生徒の生活の向上にさえ結び付いていく」といった不文律が厳然と確立しているとは言えないだろうか。そしてこの不文律は、あたかも「錦の御旗」のごとく授業者たちの前で燦然ときらめくのである。
楽しい授業づくりをしていくことに心がけることが、生徒の「学力の向上」や「自己実現」を促していくのだという捉え方は、おそらくまちがってはいない。だが、「果たしてそれだけか?」という思いは、逆にわれわれ授業者の中にどんどん募っていく。
授業者が生徒を学習内容に引きつけるために、「楽しい授業」を仕組んで生徒たちに提供していくことは、度が過ぎるとまるで「幼児への偏食の助長」のようだ。「おいしいから食べる」「おいしくないから食べない」という次元に甘んじていていいのかということである。子どもの偏食はどんどん進み、やがて自分の気にいらないものには見向きもしなくなっていく。母親が、丈夫な身体のために「好き嫌いしないでちゃんと食べなさい」と子どもにニンジンを食べさせようとする、その毅然とした働きかけが小気味良くも新鮮に思えてならない。
その点、本誌の「退屈する生徒を作らない授業」という視点は、「楽しい授業」という楽天的な単純さとはやや異なる。楽しいかどうかとは次元を別にした上で、決して「退屈はしない授業」というものがありそうな気がするのだ。「退屈する生徒を作らない授業」というテーマは、「楽しい授業」を別の視点から見つめ直す視座となり得るのではないかと思える。その「異なり」を大切にした上で本稿を書き進めていきたいと思う。
二 生真面目な国語教師たち
以前、光村図書出版の教科書(中学二年)に「ユーモア感覚のすすめ」という教材文が掲載されていた。私は研究発表会における公開授業において、この教材を用いた授業を参観する機会があったが、その際のことが今でも印象深く思い起こされる。
学習指導案における指導計画には、「全文通読」「新出漢字・語句の理解」「初発の感想発表」「教材文の構成確認」「段落読み」「論の展開の理解」「テーマに対する感想」といったオーソドックスな流れが記載されてあった。
本時は「段落読み」の学習で、生徒たちは幾度も教科書を読み返しては、丁寧に作られた学習プリントの中にその要点をまとめていく。ようやく最後に全体の場での要点の確認が行われ、その自学自習的授業は指導案通りに実に粛々と進行して終えられた。
授業後には検討会が開催され、授業者の自評、参会者を交えた質疑応答・意見交換、助言者による指導が行われていったが、異口同音に「授業づくりの骨子がしっかりとしている」とか、「生徒たちが落ち着いていた」とか、「学習プリントが効果的であった」などといったことが述べ交わされ、最後はシャンシャンと閉会した。少々鼻白む思いがした。
なんて「生真面目な国語教師たちの会合」であろう。一方では「楽しい授業」の標榜を唱えておきながら、他方ではまるで「読書百遍義おのずから通ず」的な呪縛から逃れられずにいるかのようだ。そこには、ユーモアのひとかけらも存在しない。
国語科は技能教科的側面と内容教科的側面を併せ持つ。技能教科的側面から、生徒に読む力を身につけさせるために経験的・トレーニング的な授業を仕組み、それによって生徒たちがその学習活動に楽しさを感じることができたとしたならそれはそれで喜ばしい。
しかし、せっかく「ユーモア感覚のすすめ」という教材文を用いるのであれば、もう少し内容教科的側面から、この教材文の持つ力や魅力を生かした授業を展開していくことによって、生徒が教材文を享受する中で、「読む技能」の習得を目指していきたいものだと思うのである。
教材文の筆者アルフォンス・デーケンがこの作品を通して言わんとしているのは、
「日本人にはユーモア感覚が不足している」
「ユーモアを身につけた人は、社会と人間と人生と自分自身とを愛することができる」
「ユーモアの原点は、相手のために温かい雰囲気をつくりたいと願う、思いやりの心である」
といったことであった。
こうした教材文を扱って授業を行うときでさえ、なぜ国語教師というものは、これほどかたくななまでにしかつめらしい顔付きで生真面目な授業を行ってしまうのだろう。こうした教材を扱うのなら、授業者は教室をユーモア溢れる温かな雰囲気に包み込み、生徒と教師とがその頬に穏やかな笑みをたたえるような一時間一時間に作り上げていきたいものである。生真面目な国語教師による生真面目な国語科授業の中で、生徒たちに「退屈するな」と言うのは御無体というものだ。
「退屈する生徒を作らない授業」を考えるのなら、国語教師は杓子定規を捨て、もう少し人間味のある温かな感覚を授業の基底に据えて生徒たちとかかわっていくことが大切なのではないかと考えたい。
三 平素の授業に焦点をあてて
もしかしたら、本誌今月号の特集誌面においては、あちこちに「退屈する生徒を作らない授業」の実践例が掲載されているのではないかと思う。それはそれで興味深い。何らかの問題意識をお持ちになった先生が、自己の実践を誌上に掲載して広く問いかける姿勢は潔いし、それによって多くの先生方が触発され、何らかのヒントを手にした上で、それを踏まえて自分の教壇に向かおうとすることもまた意味あることである。
しかし、老婆心ながらそこには気を付けなくてはならないことがあると思うのだ。学習集団が異なった場合、教材が異なった場合、そして何よりも授業者が異なった場合、それらの実践は誌面と同様にたやすく再現できるものではないということである。
大切なのは、それらの実践報告の根底に流れるエッセンスの部分を私たちがどう汲み取って咀嚼し、そこに自分なりの感覚で手を加えて、自分のものにしていくことができるかどうかということであろう。
私はここで、そうした自分の拙い実践発表の一つを掲載して、多くの国語教師のみなさんに供するつもりはない。「退屈する生徒を作らない授業」を考えるとき、おそらく多くの国語教師が欲しいと考えるのは、「退屈する生徒」を作らずにすんだ「成功授業の実践例集」ではないと考えるからだ。
一般にこうした誌面に授業の実践例が掲載される場合、その授業は研究授業におけるものである場合が多い。十分に時間をかけて入念な準備を行い、徹底して贅肉をこ削ぎ落とした、洗練に洗練を重ねた授業である。自分の実践を俎上に載せ、不特定多数の先生方のお目にかけようとするのであれば、選りすぐりのカードを切ろうと考えるのは至極当然である。そうした授業は、たとえ誌面からではあっても、授業者と生徒との緊迫した丁丁発止の息詰まるようなやりとりが感じ取れて心地好い。
しかし、それはあくまでも言うなれば「お出かけ用」「よそゆき用」の授業のようなものだ。こうした時、授業の公開のためにこ削ぎ落としたつもりの贅肉とともに、ともすると授業の底流にあるべき大切な温かみまでも削り落としてしまってはいないかも反省してみたいものである。
研究授業は、その何倍、何十倍もの平素の授業を土台にして成立している。「退屈する生徒を作らない授業」とは、果たして「退屈する生徒を作らない研究授業」を言うのか、あるいは「退屈する生徒を作らない平素の授業」を言うのだろうか。よくよく問い直してみるなら、私たちは日常的に生徒とかかわりあっていく平素の授業にこそもっと焦点をあて、そのレベルアップを望んでいるのではなかろうか。
本来的には、研究授業は平素の授業の底上げに寄与するべきである。それが平素の授業を駆逐してしまうようであってはならない。
・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)
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