物語とカリキュラム
このところメディアの一連の「やらせ報道」が話題になっている。データ捏造などは問題外だが、なかなか難しい問題が含まれていると思う。というのは、メディアは「すべてのもの」を伝えることはできないからである。そこに一定の編集プロセスが介入することになる。とくにマスメディアは人々の見たい、読みたいという欲望を先取りして何かを伝えるのであり、その際に期待されている物語構造に沿って企画・編集を行うから、検証が不十分だったり、因果関係がおかしかったりする報道が行われることにつながる。
物語というとらえ方は重要である。物語は人がものごとを判断し次の行動を構成するときの枠組みとなる。マスメディアも単なる事実の客観的報道にとどまらずに、潜在している物語の構造に沿って事実を組み立てることで、複雑な事象もわかりやすく訴えかけることができる。それが行き過ぎると「やらせ」になるということであり、区別するのは難しい。
教育においても同様である。子どもたちは日常生活において体験したことを自分の物語として組み立てていく。家族との関係から始まって同年齢集団、地域社会や学校生活のなかからさまざまな経験をし、他者から学びつつ自分の考え方を形成していく。その際に直接の経験外のことは、教育的な働きかけやメディア体験や読書を通じて疑似体験し想像して自らの物語をつくっていくのである。
教育の重要な役割は知の世界を子どもたちに伝えることにあるわけだが、その際に物語構造を用いることで理解させやすくなる。カリキュラムは大きな物語を形成するための設計図であり、教科書は物語そのものである。教師は一つ一つの授業を組み立てるに際し、時間の流れを整理し個別の物語として準備する。
ここまではどんな国の学校でも同じようにあてはまる。問題はこうした営みのなかで、それぞれの子どもたちの自分自身の物語づくりに、学校や教師がどのように関わるのかということである。従来、このような議論においては子どもの認知的発達段階に応じた対応の必要性が説かれることが多かった。また、個々の子どもたちの自由な発想を重視してそれに介入する働きかけをすることは避けられてきた。このように子どもの個性の存在と個々の子どもの発達可能性の存在を最大限に重視する考え方は、日本の戦後教育の特徴である。そして、この考え方に基づくと、子どもは自分の物語づくりをほかに学びながら自ら自然に行っていくものであり、教師はそれが自然に伸びていくのを支援する役割を果たすものであるという考え方が一般的になる。
ところが、他方で、先に述べたように日本の学校教育で一般に使用されるカリキュラムや教科書で提示される大きな物語構造は、学習者個人の物語を規定する大きな存在となっている。学校における学習目標が教科書に書いてある内容をマスターすることにあるとされるのが一般的だからである。日常的な学習の場で教科書やそれに準拠する補助教材が用いられ、試験において繰り返しその内容が理解されているかどうかが問われる。これは、小学校の高学年以上になると当然のように行われていることである。
このようにして、日本の教育においては、子どもたちが物語づくりを本来自分で行うべきなのに、カリキュラムが事前に用意する大きな物語の渦のなかに巻き込まれ、それに回収される傾向が強くなる。日本の教師は解答が先に用意されている問いを発する傾向が強い。物語の収束地点が先に見えなければ教授という行為が成り立たないという思いこみがあるように見える。
リーディングリテラシーとは何か
ここ数年、OECDのPISA調査をはじめとして学力調査の結果をもって、日本の教育を議論することが行われている。PISAの前回調査でリーディングリテラシーと呼ばれている力が日本で従来言われてきた読解力とは似ているようで違っていることが話題になった。日本の読解力は文字どおり文章を読む力、あるいは文章の書き手の意図を読み取る力である。それに対して、リーディングリテラシーとは文章の内容を読み取ったあとでそれに対して自分の意見を述べたり、次の行動に結び付けたりする力を指すものとされている。
これは物語を教育の場でどのように生かすかという課題と密接な関わりをもっている。日本の読解力とは他者の物語を受容する力である。日本の従来の国語の問題では繰り返し、作者が当該文章で何を表現しているのか、どのような内容なのか、また何を言いたいのかを問うてきた。第三者があたかも作者の代弁者であるかのようにそれらを尋ねて、何が正解かを判断してきた。解答する側も作者がそこで何を言いたいのかを読み取り表現しようとしてきた。日本の国語力とはこのように他者に寄り添いその表現意図を読み取る力であった。
大方の子どもたちにとって苦手な読書感想文もそういう類の学習課題である。何かを読んでその物語構造にどっぷりつかり、何か感じたものを書くという課題を要求された子どもたちの多くは、物語のあらすじを書いて最後にあたりさわりのない自分の感想を付け加えることしかできない。なぜなら、物語はあくまでも作者のものであって、その構造を変えたり違う読み方をしたり、まして作者の書きぶりに異論を唱えることは許されないからである。もちろん、著者の意図を換骨奪胎してまったく違った書き方をした感想文であっても高く評価される場合もあるだろうが、一般にそうした読み方は正統ではないとされてきたのである。
ところがリーディングリテラシーが前提とするのは、何かを読むのは読み手の考え方を変える素材を入手することである。著者の物語は絶対的な存在ではなくて、自分の物語の構造に変更をもたらす要因にすぎない。その読み方も多様なものがありえるし、読んでから取るべき行動も多様なものになる可能性がある。
PISAのリーディングリテラシーテストは択一式であるから、テストに出された文章は多様な読みや多様な行動を許すはずだとしても正解は一つである。これは何を意味するのか。それは問いが要求しているものが著者の内部物語を読み取ることだけではなく、読み取ったものを外部の科学や社会的規範・倫理などの大きな物語構造に結び付けることにあるからである。これは日本で言う国語の問題にとどまらず、他教科との融合が前提になっていると言うことができる。
PISAでは日本の子どもたちの解答において自由記述欄の無答率が多いことが問題になった。日本では物語構造が教科それぞれのカリキュラムに限定されていて、それを逸脱する発想が許されていない。読書感想文が書けないのと同じで、他者の文章をもとにして自分の考えをつむぎだすトレーニングが不足しているのである。
・・・・・・(以下、本誌をご覧ください)
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