社会を背負って教える
中学生や高校生が教科の授業に抱きがちな疑問は、「なぜこのことを学ばなくてはならないのか」ということである。国語科では、「なぜ文学作品を読んで主人公の気持ちを考える必要があるのか」「なぜ難解な説明的文章を読む必要があるのか」「なぜ日常使わない古文の文法を覚えなければならないのか」といった疑問を抱く生徒は多いはずだ。
一九七〇年代頃までは、学校は少なくとも建前としては尊敬されていた。学校で教えることになっていることを学ぶことは、当然のことであった。だが、情報社会化が進み、子どもが情報を得る手段が豊富になったことと並行して、学校教育は批判にさらされがちとなり、教科の内容についての疑問が出やすくなっている。
今や、「学ぶことになっているのだから学べ」という論理は、通りにくい。国語科で言えば、難しい文章を読む練習をしたり文法を覚えたりしなくても、わかりやすい情報を得る手段はいくらでもあるように見える
もちろん、学校には定期試験があり、高校入試や大学入試で国語が必要な場合が多いので、試験のために学ぶということは受け入れられやすいであろう。しかし、少子化で受験が容易になっている上に、たとえ有名大学を出ても就職後の生活が保障されるわけではない現状では、試験だけのために学ぶのには限度がある。ともすれば生徒にとって、国語の授業は、成績を確保するためになんとかやりすごすための時間にすぎなくなってしまう。
教科で扱う内容が、学校教育の中だけでしか通用しないものにとどまるのであれば、この状況は変えにくい。この点を変えずに教師の授業デザイン力を論じるのは、むなしい。
現代の教師に必要な授業デザイン力の基本は、社会を背負って教えることである。授業で扱っている内容が、社会とどのような人のどのような活動と関わっているのかをふまえ、その内容を学ぶことが生徒たちにとってどのような意味をもっているのかを示せるということが、授業をデザインする大前提なのである。
文章を書くことと仕事
では、社会を背負って教えるとは、どのようなことなのだろうか。
作文の指導を例に述べよう。感想文や小論文などの作文の指導は、学校教育でしか使われないような文章を書かせることになりがちだ。作家、新聞記者、テクニカルライター、コピーライターなど、文章を書く仕事はさまざまあるが、学校の作文教育はこうした仕事とは離れてしまう。
今年春からNHK教育テレビで放映されている「伝える極意」という番組がある(火曜日午前一〇時〜一〇時一五分放映)。
(以下、本誌をご覧ください)
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