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日本史 最近の発掘・発見

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2023年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2023年
1月
類例のない盾形銅鏡と、国内最大・最古の蛇行(だこう)剣が発見 富雄(とみお)丸山古墳
(奈良県奈良市)
古墳 国内最大の円墳、富雄丸山古墳(4世紀後半)からこれまで出土類例のない形状・文様の盾形銅鏡と、鉄剣では国内最大となる蛇行剣が見つかった。盾形銅鏡は長さ64センチメートル、最大幅31センチメートル、土が付着した状態で重さ約5.7キログラム。盾の形をした銅鏡の発見は初めてであり、倭鏡(国産の鏡)を代表する鼉(だ)龍鏡に似た類例のない文様が描かれていた。蛇行剣は柄(つか)に収める部分も合わせ全長2.37メートル、幅6センチメートルの刃部分が蛇行する形状。広島市の中小田(なかおだ)第2号古墳(5世紀後半)で出土した、これまで国内最大とされていた長剣(1.15メートル)の倍ともなる長さであるとともに、4世紀後半の古墳からの出土は蛇行剣として最古の例となる。盾形銅鏡、蛇行剣はいずれも墳丘北東側に位置する「造り出し」と呼ばれる部分から出土した。高度な青銅器、鉄器製作技術が用いられており、古墳時代における金属工芸の最高傑作だと専門家は話す。【奈良市教育委員会・奈良県立橿原考古学研究所発表】
2022年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2022年
1月
江戸幕府の銀貨公印が京都で発見 京都府京都市下京区 「御土居」の濠跡 江戸 京都市内の発掘調査で、江戸幕府の銀貨「慶長丁銀」の偽造防止用の公印「極印(ごくいん)」の鉄製はんこが見つかった。銀座(鋳造所)からの持ち出し厳禁、廃棄時は溶解処分されるもので、実物の発見は今回が初めてとなる。極印は532グラム、全長11.3センチメートル、印面は幅3.4センチメートル、縦1.7センチメートル。米俵を担ぎ小槌を持った大黒天の像と「常是」の文字が刻まれており、銀貨製造の責任者が名乗る「大黒常是」由来とみられる。発見場所と銀座が約2.5キロメートル離れていることから、故意に持ち出され偽金製造に使われたのではないかとする見方がある。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2022年
2月
縄文時代でも戦闘の可能性、頭に傷痕を持つ縄文人の頭蓋骨 有珠(うす)モシリ遺跡
(北海道伊達市有珠町)
縄文 北海道伊達市の「有珠モシリ遺跡」から、集団間の争いが原因とみられる傷痕を持つ、縄文時代の頭蓋骨が複数見つかった。約2400〜2500年前の骨であり、全11体が同じ場所に埋葬されていたが、別々に埋葬されていた遺体を一度掘り起こして同じ墓に埋葬した痕跡があり、争いで亡くなった人をひとまとめにした可能性がある。11体は歯の特徴などから親族とみられ、8体の頭蓋骨には切られたり殴られたりしたとみられる痕があった。集団間の大きな争いは、稲作が本格化する弥生時代からとされてきた。同時期に、弥生時代に移行していた西日本の鳥取市「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」でも、戦闘による複数の人骨が発見されている。【東北芸術工科大(山形市)などの研究グループ発表】
2022年
2月
クマの歯を加工したアイヌ装飾品―青森にて国内初の出土 聖寿寺館跡(しょうじゅじたてあと)
(青森県三戸郡南部町)
室町 北東北最大の戦国大名・三戸南部氏が15世紀前半〜16世紀前半に拠点を置いた城館跡「聖寿寺館跡」から、クマの犬歯(牙)を加工した中世アイヌ文化の装飾品が出土した。長さ6.8センチメートル、幅2.2センチメートルで、中央に紐を通すための穴が開いており、小刀のさやに付ける装飾として使われたとみられる。クマを加工した装飾品の出土は北海道上ノ国町の「勝山館跡(かつやまだてあと)」(15世紀後半〜16世紀)に次いで2例目であり、本州では初めてのこと。また聖寿寺館跡ではアイヌの人々が使用した骨製の道具が多数見つかっており、アイヌの人々が城館の中で長期的に滞在していた可能性が高いとみられている。【南部町教育委員会発表】
2022年
3月
日本初の欧州駐在外交官による、岩倉具視宛ての書簡発見 京都府立京都学・歴彩館
(京都府京都市左京区)
明治 ヨーロッパ駐在の外交官から岩倉具視に送られた書簡が発見された。送り主である鮫島尚信(1845〜80年)は、欧州での「岩倉使節団」の実務に携わった外交官。書簡には、カトリック弾圧を試みるドイツ宰相ビスマルクとローマ教皇の対立を報じた新聞の翻訳など、現地の宗教や政治について正確性の高い情報が書かれていた。キリスト教の弾圧が国際問題となっていた明治政府に、ヨーロッパにおける宗教情勢を伝えた。当時の外交官の実務や、宗教情勢についての貴重な史料となる。【京都新聞による】
2022年
3月
真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうさえもん)は二人いた?―大太刀を振るう戦国時代の豪傑 福井県立歴史博物館
(福井県福井市)
室町 朝倉義景に仕えた戦国武将・真柄十郎左衛門の新資料を、福井県立歴史博物館が発見した。十郎左衛門の名は直隆で、約3メートルの大太刀を振るう、身長約2メートルの豪傑と伝えられている。新資料は十郎左衛門の子孫が記した「真柄氏家記覚書」。この資料から、十郎左衛門は直隆の父・家正がもともと名乗った名であり、のちに直隆に譲ったと判明。父子の実績が一体化され、一人の人物として伝承されていたことがわかった。また大太刀を振るう兵法は直隆の祖父が創始者であり、一族で相伝していたと確認された。十郎左衛門が使用したとされる大太刀が全国各地に何本か存在しているのも、不自然ではないと考えられる。【福井県立歴史博物館発表】
2022年
5月
朝鮮撤兵を指示する、徳川家康の書状原本が見つかる 個人 安土・桃山 豊臣秀吉の行った朝鮮出兵にて、九州で指揮を執っていた浅野長政に対し、滞りなく撤兵できるよう徳川家康が指示した内容の書状原本が発見された。秀吉没後の政権運営を、家康が五大老の一人として受け持っていた様子が伺える。書状は1598(慶長3)年11月3日付で、長政からの手紙に返信する内容だった。書状の存在自体は写しで知られていたが、原本が確認されたのは今回が初。写しにはない「参着可申候(到着するでしょう)」の5文字も記されていた。専門家は「前段のやりとりは不明だが、撤退に際し兵を運ぶ船など準備されていたのでは」と推測する。【愛知県岡崎市美術博物館発表】
2022年
5月
沖縄の古墳群からルーツの異なる人骨3体 神座原(かんざばる)古墓群
(沖縄県南城市)
室町〜江戸 「神座原古墓群」を調査したチームは、納骨堂内にあった古い人骨3体をDNA分析した結果、それぞれ日本、朝鮮半島、ヨーロッパに由来していたと明らかにした。古墳群は1992年に取り壊されたが、人骨などは近くに新設された納骨堂に納められており、住民からの依頼を受けて研究チームと南城市教育委員会が調査した形。石厨子(いしずし)(骨を納める器)に納められていた人骨3体は成人男性とみられ、母系の遺伝を辿ることができるミトコンドリアDNA解析の結果、それぞれ異なる系譜であることが判明。また同じ石厨子に納められるのは血縁関係にあった人の骨であり、母系の異なる人が沖縄で血縁関係を結び、定住していた可能性がある。琉球王国時代(1429〜1879年)における海外との人的交流が伺える。【山口県下関市土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長らの研究チーム発表】
2022年
6月
弥生時代の「糸玉」、全国初の出土 南蔵本(みなみくらもと)遺跡
(徳島県徳島市南蔵本町)
弥生 弥生時代前期前葉期(紀元前5〜6世紀ごろ)の地層から、麻の糸を束ねた「糸玉」が出土した。糸玉は長さ6.2センチメートル、幅4.5センチメートル、厚さ8ミリメートル。麻の茎から採った繊維2本を撚って糸状にしたものを束ねてあり、水銀朱と呼ばれる赤い顔料を混ぜた漆が表面に塗られていた。用途は不明だが、装飾品や装身具として使われていたと考えられる。糸玉はこれまで12例発見されていたが、すべて縄文時代の遺跡から。今回の出土例は中四国地方以西で初めてであり、弥生時代の遺構から発見されたのは全国で初となる。【徳島県埋蔵文化財センター発表】
2022年
6月
延暦寺の8仏像、焼き打ちを逃れた仏像と判明 天台宗総本山比叡山延暦寺
(滋賀県大津市)
室町 比叡山延暦寺の国宝・根本中堂(こんぽんちゅうどう)に現存する複数の仏像が、鎌倉時代に制作されたものであることがわかった。根本中堂は1571年に織田信長の「比叡山焼き打ち」で焼失しており、江戸時代に行われた再建時に仏像も作り直されたとみられていた。本堂の改修に合わせ14体の仏像を解体・修理しており、修理済みの8体の仏像内部から制作年や仏師の名前といった墨書を確認。残りの仏像も同時期に作られたとみられる。仏像は、本尊である薬師如来の脇に安置される梵天(ぼんてん)1体、帝釈天1体、十二神将立像12体の計14体。【天台宗総本山比叡山延暦寺発表】
2022年
7月
新たな銭種「饒益神宝(にょうやくしんぽう)」の鋳損じ銭 史跡周防鋳銭司(すおうのじゅせんし)跡
(山口県山口市)
平安 平安時代に設置された銭貨鋳造所跡から、「饒益神宝」という銅銭の鋳損じ銭が初めて見つかった。元興寺文化財研究所でエックス線CT撮影をしたところ「饒」の文字を確認、また磨かれず残った余分なでっぱりが金属片にあることから鋳損じ銭と判明した。縦8.4ミリメートル、横14.4ミリメートル、厚さ1.2ミリメートルの金属片で、貨幣上部の一部とみられる。文献から、饒益神宝は859(貞観元)年から870(同12)年に生産。同跡ではこれまで年代も種類も異なる鋳損じ銭が2種見つかっており、史料上の初鋳年から最長で35年、生産を継続していた可能性がある。継続的に銭貨が造られていたことが改めて裏付けられた。【山口市・山口大学発表】
2022年
7月
弥生時代最古の石製指輪 八日市地方(ようかいちじかた)遺跡
(石川県小松市)
弥生 北陸随一の大規模環濠(かんごう)集落遺跡にて、弥生時代中期の石製指輪が発見された。指輪は半分が欠損しているが、緑色凝灰岩製で淡緑色、円形に復元すると内径16ミリメートル、外径23.2ミリメートルとなり、幅は2.5〜3ミリメートル。2200〜2300年前に作られたとみられ、これまで発見された弥生時代の石製指輪において国内最古となる。指輪に直径1ミリメートル程度の穴があることから、欠けた後も装身具として使用していたとみられる。指輪は真円ともいえる形に加工されており、当時の高い技術力がうかがえる。【小松市埋蔵文化財センター発表】
2022年
8月
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)で、「後殿」とみられる基壇を発見 藤原宮跡
(奈良県橿原市)
飛鳥 天皇が政治や儀式を執り行ったとされる藤原宮(694〜710年)跡の大極殿の北側から、基壇(建物の土台)跡が初めて見つかった。天皇が身支度などする「後殿」とみられる。大極殿の北側565平方メートルを発掘し発見、基壇はこれまでの調査と合わせ東西約50メートル、南北約16メートルの規模となる。西側に伸びる回廊跡も見つかり、後殿の両端と回廊が繋がっていたとみられる。後に造営された平城宮に大極殿後殿、平安宮にも大極殿北部に小安殿と呼ばれた施設があり、藤原宮の後殿に倣った可能性があるとして、今回の発掘は宮殿の構造比較や変遷について考察する上で重要な発見となった。【奈良文化財研究所発表】
2022年
8月
2000年以上前から繁栄か―平安京の水運拠点「淀津(よどつ)」 長岡京跡・淀水垂大下津(よどみずたれおおしもづ)町遺跡
(京都府京都市)
弥生〜明治 かつて京都の玄関口として栄えた川港「淀津」の遺構が発見された。平安時代の史書『日本後紀』に名前が登場する淀津は、平安京の南約10キロメートルに位置する。桂川、宇治川、木津川が合流する淀川の起点であり、都に届ける物資が集まったとされた。発掘調査では、弥生期から明治期までの2000年におよぶ10地層(厚さ約3メートル)を確認。平安期の地層から国内外の土器や陶磁器の破片が多数見つかったことから「淀津」と判断された。また弥生期の地層からは土器などが出土し、淀津が2000年以上前から流通の拠点として繁栄していたことがわかった。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2022年
8月
石田三成の居城跡に大規模な外堀 佐和山(さわやま)城跡
(滋賀県彦根市)
安土・桃山 石田三成(1560〜1600年)の居城として知られる佐和山城跡で、外堀の一部とみられる巨大な溝が見つかった。溝は全長約7メートル、幅約10メートル、深さ約70センチメートルだが、江戸時代以降に上部が削られており、当時の深さは約1メートルとされる。溝から16世紀末〜17世紀初めの陶磁器などが見つかり、三成が城主の時代に掘られたと推定。三成が城主となった1595年の翌年に記された書状に、城下町整備を指す「佐和山惣構御普請(そうがまえごふしん)」の記述があり、外堀も整備のひとつとして造られたとみられる。城下町を囲むよう掘られた外堀は「惣構」と呼ばれ、豊臣政権下での重臣の城で発見されたのは初めてではないかと専門家は指摘する。【滋賀県文化財保護協会発表】
2022年
8月
年間329日出勤―平城宮の女官を勤務評価した「木簡」出土 平城宮跡
(奈良県奈良市)
奈良 天皇の身の回りを世話していた、女性役人である「女官」の勤務評価が記された木簡が初めて発見された。木簡は長さ約17センチメートル、幅約3センチメートル。女性を意味する「牟須売(むすめ)」の文字や、年齢を示す「年五十九」、年間の出勤日数とみられる「日参佰弐拾玖(329日)」が墨で書かれ、評価や官職が書いてあったとされる上部は見つからなかった。都で働く役人は月に原則5日の休日を取ることが決められており、これまで見つかった男性役人の木簡も年間300日未満の勤務が大半。専門家は「当時でもハードワークであり、休みづらい役職にあったのかもしれない。奈良時代における女官の実態を知るきっかけになるのでは」と話す。【奈良文化財研究所発表】
2022年
9月
比叡辻(ひえいつじ)遺跡初の発掘調査、中世・坂本の集落跡が見つかる 比叡辻遺跡
(滋賀県大津市)
鎌倉〜室町 琵琶湖岸に広がる遺跡にて、中世(鎌倉から室町時代)の集落跡が確認された。集落跡は比叡山延暦寺の麓に位置した流通拠点「坂本」にあり、文献から周辺地域が栄えていたことが知られている。約1800平方メートルを調査し、建物の柱が乗る礎石や、香道で用いる青磁の香炉、茶道具である風炉(ふろ)や天目茶碗などが見つかった。礎石に柱を乗せる建築は庶民の住居には見られず、また香道や茶の湯といった貴族層を中心とする遊びの出土品から、文化水準の高い人々が住んでいたと推測される。平安後期、湖の港に運ばれた荷を運ぶ業者「馬借(ばしゃく)」や「車借(しゃしゃく)」が居住し流通の拠点として繁栄、また1467年の応仁の乱によって京都の寺社や貴族が避難し、そのまま住んでいたとみられる。中世・坂本の繁栄が裏付けられる発見となった。【大津市文化財保護課発表】
2022年
9月
津軽平野の過度期を示す発見、弥生時代の竪穴住居跡 清水森西遺跡
(青森県弘前市)
弥生 弥生時代中期初頭(2200〜2100年前)の遺跡から、竪穴住居4軒など集落跡が見つかった。住居は最大で直径約8メートルの比較的大型、10〜20軒に30〜50人が住んでいたと推測され、稲作規模の拡大により集落も大型化していったとみられる。田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡(同時代中期、2100年前)で、大規模な稲作が始まるまでの過度期を示す発見となる。今回調査した清水森西遺跡は、東北最古の水田跡が見つかった同市の砂沢遺跡(同時代前期、2300年前)と、約650枚の水田跡が見つかった垂柳遺跡の間の時期に栄えた遺跡。津軽平野における水稲耕作や弥生文化の広がりの解明が今後も期待される。【弘前大学北日本考古学研究センター発表】
2022年
10月
「倭歌(やまとうた)」最古の表記、平城宮跡から木簡 平城宮跡
(奈良県奈良市)
奈良 奈良時代前半のものとみられる木簡に、「倭歌」という文字が発見された。木簡は長さ30.1センチメートル、幅3.1センチメートル、厚さ6ミリメートルで、歌の一部とみられる言葉も書かれている。平城宮跡東の排水路で見つかった。「倭歌」は漢詩に対する日本古来の歌を意味。「奈良時代は中国文化を積極的に取り入れながら、新しい国や文化を作る力にあふれていた時代では」と専門家は話す。これまで「やまとうた」は平安時代の『古今和歌集』での表記が最古の例とされていた。奈良時代末に成立したとされる『万葉集』で「倭歌」の表記は見られたが、後世の写本で「唱和・応答する歌」を意味する「和歌」と表記する例も複数あり、「やまとうた」という意味で「倭歌」の表記が使われていたのか、事実として確認できていなかった。今回の木簡は「やまとうた」を示す最古の例とみられる。【奈良文化財研究所発表】
2022年
11月
縄文期の墓の特徴を持つ弥生期の環状土坑群を発見 立塚(たちづか)遺跡
(鹿児島県鹿屋市)
弥生 弥生時代早期(約2800年前)の墓とみられる、環状(楕円状)に配置された土坑群が見つかった。30基以上ある土坑は縦横が約0.8×0.5メートル〜6.5×1.3メートル、深さは約0.7〜0.8メートルの大きさで、長方形や方形がよく見られる。土坑群のひとつは60×40メートルの楕円形で、もうひとつは調査中により規模不明。環状に配置した墓群は縄文時代の特徴とされ、縄文時代の精神文化を受け継いだ、南九州独特の埋葬と考えられる。弥生時代の環状土坑墓群はこれまで見つかっていない。また弥生時代初頭の墓の作り方は未知の点が多く、今後の研究の指標となる。【鹿児島県立埋蔵文化財センター発表】
2022年
12月
世界遺産の古墳群から、国内最大の3.5メートル「木製埴輪」 峯ケ塚(みねがづか)古墳
(大阪府羽曳野市)
古墳 国内最大となる木製埴輪が、峯ケ塚古墳から出土した。長さは3.52メートル、幅75センチメートル、厚み8センチメートル。当時貴重な木材とされた高野槙(こうやまき)で作成されている。種類は「石見(いわみ)型木製品」で、権威の象徴や邪気を払うとされる玉杖(ぎょくじょう)をかたどったとみられる。地面に立てて使う用途のため、現状より1メートルは長かったと考えられる。峯ケ塚古墳は全長96メートルあり、世界遺産の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群を構成する古墳のひとつ。被葬者は墳丘規模や副葬品から、当時トップクラスの大王に準ずる位の人物と推定される。【大阪府羽曳野市教育委員会発表】
2022年
12月
新たに発見された信玄の書状―川中島の戦いに関わる重要史料 室町 戦国武将として名高い武田信玄と上杉謙信が争った、「川中島の戦い」に関する信玄の書状が新たに見つかった。書状には晴信(信玄)の名前と花押があり、晴信から現在の長野市松代町(まつしろまち)東寺尾を拠点とした寺尾刑部少輔に宛てたもので、城を落城させた武功を称え、また上杉勢の動きに対応し自身も進軍すると伝える内容。「最前線にいた武士の戦いぶりがわかる、信州の歴史を振り返るうえで重要な史料」と専門家は話す。書状は縦26センチメートル、横37センチメートルで、京都の古書店が所有。長野県立歴史館は購入のためのクラウドファンディングを募っていたが、2023年3月に無事目標金額を達成した。【長野県立歴史館発表】
2021年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2021年
1月
新情報 光秀は本能寺に行かなかった?―古文書に家臣の証言 金沢市立玉川図書館近世史料館
(石川県金沢市)
江戸 本能寺の変(1582年)の87年後にまとめられ、金沢市に現存する古文書「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(全3巻)には、明智光秀は本能寺に行かなかったと記されていることがわかった。この古文書は加賀藩主・前田家に仕えた兵学者の関屋政春(せきやまさはる)が記したもので、本能寺の変についての記述がある上巻は1669年に成立した。光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)の三男で、自身も本能寺の変に参加した利宗(としむね)が甥に語った内容として、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」と記録されていた。鳥羽(京都市南部)は寺から約8キロメートル離れている。事件に関わった家臣の証言であることから古文書の信憑性は高いとみる研究者もおり、今後の詳しい検討が待たれる。【富山市郷土博物館主査学芸員 萩原大輔氏発表】
2021年
4月
江戸城の石垣発見、最古級の可能性 皇居・東御苑
(東京都千代田区)
江戸 皇居・東御苑の「三の丸尚蔵館」の改築工事現場から、約400年前の江戸時代初期に築かれた石垣が発見された。これまで発見された江戸城の遺構の中で最古の可能性が高いという。石垣は高さ約4メートル、幅約16メートルで、「乱積み」と呼ばれる、大小の石を不規則に積んだ技法が用いられていた。この技法はこれまで知られていた江戸城の石垣の技法とは異なるという。江戸城の遺構は改築や修繕が施されたものが多かったため、江戸時代初期のまま残されているのは大変珍しく、歴史的価値も高いという。【東京都千代田区発表】
2021年
5月
奈良時代の円形建物跡、行基の供養堂か 菅原(すがはら)遺跡
(奈良県奈良市)
奈良 奈良市の菅原遺跡から、奈良時代の日本では初めてとなる、円形の建物跡が発見された。建物跡には、15か所の柱穴が直径約15メートルの円形に並んでおり、円堂や多宝塔といった建物であった可能性があるという。過去の調査で、今回の発掘現場付近から、行基が建立した寺院「長岡院」の候補とされる建物跡が発見されていること、また今回同時に出土した瓦が行基の没年に近い奈良時代中期のものであることから、この建物跡は行基の供養堂であった可能性が高いとみられている。【元興寺文化財研究所発表】
2021年
6月
港川人、現代日本人とは異なる祖先 港川フィッシャー遺跡
(沖縄県八重瀬町)
旧石器 1970年に沖縄県八重瀬町で発見された旧石器時代の人骨「港川人」は、DNA解析の結果、遺伝的には現代日本人の直接の祖先ではないことがわかった。港川人の人骨と、国内で出土した縄文・弥生時代の人骨、現代人のミトコンドリアDNAの塩基配列を比較したところ、港川人はアジア人の祖先の集団には属していたものの、縄文人や弥生人、現代日本人の直接の祖先にはあたらないことが判明した。それまで、港川人が日本人の祖先にあたるか否かの論争が続いていたが、これはルーツを巡る論争に一石を投じる結果となった。【東邦大学、総合研究大学院大学などの研究チーム発表】
2021年
6月
平城宮跡で最大規模の建物跡出土―孝謙天皇の宮殿か 平城宮跡
(奈良県奈良市)
奈良 平城宮跡のうち、天皇や皇太子の宮殿があったとされる東院地区で8世紀後半の大型建物跡が出土した。奈良時代後半の天皇や皇太子の宮殿の中心的な建物とみられ、平城宮跡で見つかった建物跡では最大規模という。建物跡は東西27メートル、南北12メートルの長方形で、格子状に柱50本が並んだ床張りの建物だったとみられる。出土した瓦の特徴から、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の在位期間にあたる749〜770年に存在したと判断された。建てられた時期や、『続日本紀』に孝謙(称徳)天皇は東院を好んだという記述があることから、研究者からは孝謙天皇の宮殿との見方が出ている。【奈良文化財研究所発表】
2021年
9月
弥生時代のガラス玉、「草原の道」を経て日本へ 平原(ひらばる)遺跡
(福岡県糸島市)
弥生 弥生時代末の墳丘墓の平原遺跡から出土したガラス玉が、シルクロードの1つ「草原の道」を経て東地中海沿岸から日本へもたらされたことが、奈良文化財研究所の分析で明らかになった。研究グループが分析を行ったところ、中央アジアの遺跡で出土したガラス玉と成分が一致し、成分から東地中海沿岸で製造されたとみられることがわかった。このガラス玉は、「草原の道」を経て1万キロメートル以上離れた日本へ渡ったと考えられる。平原遺跡は、「魏志」倭人伝に登場する伊都(いと)国の王墓とされる。朝鮮半島と近いという地理的条件を生かして、大陸と盛んに交易を行っていたことが分かる貴重な証拠となった。【奈良文化財研究所主任研究員 田村朋美氏ら発表】
2021年
10月
着色された貝製ビーズ 日本最古の彩色装飾品 サキタリ洞遺跡
(沖縄県南城市)
旧石器 2013年にサキタリ洞遺跡で出土した装飾品の貝製ビーズに赤い顔料が付着していたことが、新たな分析でわかった。人為的に彩色された装飾品としては、日本最古のものだという。同遺跡からは、顔料の塊やその原料が出土しており、今回貝製ビーズに顔料が付着していたことから、その使用目的や方法が明らかになった。彩色装飾品は東南アジアなどでも確認されており、サキタリ洞遺跡の旧石器人のルーツの解明につながる可能性があるという。【沖縄県立博物館・美術館発表】
2021年
11月
沖縄で1万年前の人骨出土 空白の時代を知る資料 藪地(やぶち)洞穴遺跡
(沖縄県うるま市)
貝塚(縄文) うるま市の藪地洞穴遺跡から、約1万〜9千年前の人骨が発見された。人骨は頭蓋骨の一部で、沖縄の「貝塚時代(縄文時代から11世紀頃)」の人骨としては最古のものだという。沖縄では港川フィッシャー遺跡やサキタリ洞遺跡などで、1万4千年以上前の旧石器時代の人骨が多数出土していたが、それ以降出土した人骨はすべて7千年前以降の貝塚時代のもので、この間の人骨が発見されておらず、「空白の時代」となっていた。今回発見された人骨はこの「空白の時代」に相当するものであり、旧石器時代と貝塚時代の人のつながりを解明する貴重な資料となった。【うるま市教育委員会発表】
2021年
11月
平安宮の内裏跡発見 「枕草子」「源氏物語」の舞台 京都市上京区 平安 平安時代に天皇が暮らした平安宮の内裏跡とみられる遺構が初めて発見された。この遺構は、「枕草子」や「源氏物語」など平安文学の舞台となった後宮「登華殿(とうかでん)」と「弘徽殿(こきでん)」とみられている。遺構からは、掘立柱建物用の柱穴や雨水を排水するための石組みなどが見つかった。またこれまで内裏は、礎石建ちというより新しい技術で建てられたと考えられてきたが、実際は掘立柱という伝統的な技法で建てられていたこともわかり、それまでの考えを見直す貴重な発見となった。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2020年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2020年
1月
信長期の天守台発見−日本最古の可能性 岐阜城
(岐阜県岐阜市)
室町〜安土・桃山 岐阜城の発掘調査で、織田信長が築いたとみられる天守台(天守の土台)の石垣が初めて発見された。天守は明治期の再建で石垣を積み直したため、信長期の石垣はほぼ残っていないとされていた。今回の調査では、天守の北西隅の石垣に「間詰石」と呼ばれる小石が確認され、これは信長期の石垣の特徴と一致するという。もし信長が築いたものであれば、日本最古の天守台ということになり、城郭の歴史をたどるうえで重要な意味を持つという。【岐阜市教育委員会発表】
2020年
3月
法隆寺金堂壁画、大正時代の姿 東京国立博物館
(東京都台東区)
大正 飛鳥時代(7世紀)に描かれた法隆寺金堂壁画を1916(大正5)年に撮影したガラス乾板約150枚が新たに東京国立博物館で見つかった。これまでに見つかっていた1935(昭和10)年に撮影された原板よりも古く、1949(昭和24)年の火災による焼損前の姿を知ることができる。ガラス乾板はフィルム普及以前に広く用いられた撮影材料で、今回発見された乾板は縦横約30センチメートルで、同博物館の収蔵庫にて木箱に収められていたという。【東京国立博物館発表】
2020年
3月
慈照寺−建設予定地は1キロ南 慈照寺(銀閣寺)
(京都市左京区)
室町 室町幕府8代将軍足利義政が築いた慈照寺(銀閣寺)の当初の建設予定地が現在地から約1.2キロメートル南だったことが古文書から確認された。それまでの研究から、慈照寺の建設予定地が変更されていたことは知られていたが、詳細な位置までは不明だった。古文書には、当初の建設予定地を禅林寺に売却した記録が残されていたという。寺院の集まる東山の中心地から外れへ予定地を変えたことから、義政が治世中に起きた応仁の乱(1467〜77年)を機に政治から逃避しようとしたのではないかと推測されている。【大阪大谷大学発表】
2020年
4月
将軍邸「室町殿」跡から巨大な庭石 「室町殿(むろまちどの)」跡
(京都市上京区)
室町 「花の御所」として知られる室町幕府の将軍邸「室町殿」跡から巨大な庭石が出土した。出土した8つの石のうち1つは長径約2.7メートルで、それまでに発掘された庭石の中で最大級だという。これらは、水を用いずに滝の流れを表現する「枯滝(かれたき)」に用いられたと推測されている。庭石とともに出土した土器の分析から、庭園は8代将軍足利義政の時代の造営とみられ、応仁の乱以前の将軍家の権力の大きさを物語っている。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2020年
5月
秀吉最晩年の城「京都新城」の遺構発見 京都御苑
(京都市上京区)
安土・桃山 豊臣秀吉が死去する前年の1597(慶長2)年に築いた「京都新城」の遺構とされる石垣と堀の跡が京都御苑内で発見された。この城は、文献から存在は確認されていたが、遺構が見つかったのは初めてで、発見は極めて貴重だという。見つかった石垣は自然石が丁寧に並べられており、美しさを意識して築かれたことがうかがえる。また堀からは、豊臣家の家紋や菊紋入りの金箔付きの瓦が見つかり、豊臣家の権威を後世まで残すための豪華な城だったと推測される。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2020年
6月
琵琶湖に浮かぶ島に大坂城の橋を移築? 宝厳寺・都久夫須麻(つくぶすま)神社など
(滋賀県長浜市)
安土・桃山 琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺の唐門など4棟と、都久夫須麻神社の本殿の計5棟が、豊臣秀吉が築いた大坂城の極楽橋を移築した可能性が高いことが県の発表でわかった。1615年の大坂夏の陣で焼失した大坂城の建物は他に現存せず、貴重な遺構だという。2013〜20年の修理の際の県の調査によると、これら5棟は「組物(くみもの)」と呼ばれる柱上部の構造が共通しており、元は一つの建物であった可能性が非常に高いという。またその彩色や技法などから、秀吉の好んだ豪華絢爛な桃山時代の建築様式がうかがえる。【滋賀県発表】
2020年
8月
赤外線で柱に浮かぶ菩薩像 西明寺
(滋賀県甲良町)
飛鳥 滋賀県甲良町にある西明寺(さいみょうじ)本堂(国宝)の柱に、8体の菩薩立像が描かれていることがわかった。柱は煤で黒くなり、これまで何が描かれているのか不明だったが、赤外線で撮影することで絵が浮かび上がったという。柱は直径約45センチメートル、像は2本の柱に4体ずつ描かれており、当時は極彩色であったと推測される。調査によると、江戸時代に補筆された形跡があるが、原画はそれよりもさらに古い時代のもので、日本最古級の絵画とみられるという。【広島大学教授 安嶋紀昭氏・大阪教育大学講師 高間由香里氏発表】
2020年
8月
縄文人、アジア東部に到達した最も古い系統の人類の一つと判明 伊川津貝塚遺跡
(愛知県田原市)
縄文 伊川津貝塚遺跡出土の縄文人骨1体(約2500年前)から抽出したDNAの塩基配列を解析したところ、アフリカ大陸からアジア東部に到達したホモ・サピエンス集団の中でも、最も古い系統に属することがわかった。ホモ・サピエンスのアジア東部到達へのルートは、ヒマラヤ山脈の北側・南側の2つが考えられているが、どのルートで日本に到達したかは明らかになっていない。研究では、この縄文人は、現在の東アジア人よりも、南側ルート集団の指標となるラオスの人骨(約8000年前)に遺伝的に近縁であることがわかった。一方の北側ルート集団の指標となるシベリアのマルタ人骨(約2万5000年前)とは遠縁であった。しかしながら、今回の研究結果だけで北側ルートの遺伝的影響を否定できるものではなく、今後は日本列島のさまざまな地域の縄文人骨の分析を行う必要があるという。【金沢大学助教 覚張隆史氏・東京大学教授 太田博樹氏発表】
2020年
10月
創建当時の扉絵に描かれた菩薩 平等院
(京都府宇治市)
平安 平等院は、鳳凰堂創建当時(1053年)のものとされる中央扉に、菩薩の絵を確認したと発表した。扉は2枚一組の観音開きで、1枚は縦約4.7メートル、横約1.6m。江戸時代の1670年に取り替えられ、保管されていた。肉眼ではわからないが、斜めから光を当てた特殊な写真により、わずかな凹凸や顔料の跡が見つかり、北扉からは建物の屋根と菩薩が4体、南扉からは建物や山が確認された。専門家は、「扉絵は、創建当初かつ国内最古の上品上生図(じょうぼんじょうしょうず)(最上位の来迎図)と考えられ、国宝に匹敵する」と指摘する。【平等院発表】
2020年
10月
木像内から金色のミニ不動明王 比叡山延暦寺
(滋賀県大津市)
鎌倉 比叡山延暦寺が所蔵する護法童子(ごほうどうじ)像の中から、金銅不動明王像(高さ9.5センチメートル)が発見された。金色の不動明王像は極めて珍しいものだという。護法童子は仏法を護る子どもの姿をした善神で、延暦寺では修行の一つである回峰行(かいほうぎょう)を実践する行者の守護神でもある。また、不動明王は回峰行と関わりが深く、護法童子と不動明王の関係の深さを示すという。2018年に護法童子像を修理した際、後頭部の空洞に不動明王像と水晶製の舎利容器、不動明王200体の姿が押印された和紙50枚などが見つかった。不動明王像の銅の成分から、鎌倉後期(13世紀後半〜14世紀前半)の作とみられ、護法童子像制作当初から納入されていた可能性が高いという。【比叡山延暦寺発表】
2020年
10月
「承久の乱」の絵巻、80年ぶりに発見 発見当時:個人宅
現在:龍光院
(和歌山県高野町)
江戸 鎌倉時代の承久の乱(1221年)を描いた「承久記絵巻」(全6巻)が、約80年ぶりに発見された。もともとは和歌山県高野町の龍光院が所蔵していたが、1939年に京都国立博物館で展示されたのちに行方不明となっていた。今回、個人宅で保管されていることが京都文化博物館の調査で確認された。「承久記絵巻」は、承久の乱を描いた現存唯一の絵巻とされ、紙の質などから江戸時代初期に制作されたとみられる。また、肖像画が確認されていない北条義時の顔も描かれている。【京都文化博物館発表】
(2021年、所有者が龍光院に寄贈し、現在は龍光院が所蔵している)
2020年
11月
玉虫で装飾された国宝級の馬具 船原(ふなばる)古墳
(福岡県古賀市)
古墳〜飛鳥 船原古墳(6世紀末〜7世紀初め)に伴う土坑から出土した馬具の中に、玉虫の羽を使った装飾があることがわかった。この馬具は「杏葉(ぎょうよう)」と呼ばれる馬の腰につり下げる装飾品で、透かし彫りの金銅板と地板の鉄板の間に、20枚ほどの玉虫の羽が敷き詰められていた。古代の玉虫の装飾としては、法隆寺の玉虫厨子や沖ノ島(福岡県宗像市)の金銅製帯金具(ともに国宝)が知られるが、馬具としては今回が国内初のものとなる。玉虫装飾の馬具はこれまで韓国・新羅時代の王陵級古墳で確認されており、新羅との交流を示す貴重な発見であるという。【古賀市教育委員会発表】
2019年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2019年
1月
飛鳥時代最大の方墳 小山田古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 7世紀中ごろの築造とされる古墳の調査で、方形をした古墳の南辺(東西幅)が80メートル以上になることがわかり、これまで飛鳥時代最大とされていた岩屋古墳(千葉県)を上回ることが確実となった。その規模などから、葬られた人物については舒明(じょめい)天皇(天智・天武天皇の父)と、大化の改新で滅んだ蘇我蝦夷(えみし)の二人が有力な候補と考えられている。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2019年
2月
「奴国」の海外交流を裏づける「錨型(いかりがた)鉄器」 須玖(すぐ)竹ケ本B遺跡
(福岡県春日市)
弥生 弥生時代のクニ「奴国」と、朝鮮半島の国々との交流を裏づける遺物が出土していたことがわかった。遺物は、弥生時代後期(紀元1〜2世紀ごろ)とみられる縦4センチメートル、横8センチメートルの、船の錨の形をした鉄器で、日本での発見は初めて。正確な用途はまだ解明されていないが、紀元前後の朝鮮半島東南部(当時は弁韓・辰韓など)の墓に類似品がみられ、当時の深いつながりを示す資料だという。【春日市教育委員会発表】
2019年
3月
国内最古の鉱山? 若杉山遺跡
(徳島県阿南市)
弥生 朱色の原料である「辰砂(しんしゃ)」という鉱物の採掘遺跡で、2018年に発見された坑道跡から、弥生時代後期(1〜3世紀)の特徴をもつ土器片が出土した。これにより、弥生時代にすでにこの坑道を使用し、採掘が始まっていたと考えられ、国内最古の鉱山遺跡となる可能性が高まった。
これまで国内最古の鉱山遺跡は長登(ながのぼり)銅山跡(山口県美祢市)で、8世紀ごろとみられていたが、500年以上さかのぼることになる。【阿南市・徳島県教育委員会発表】
2019年
3月
初期「斎王」の宮殿跡 斎宮跡
(三重県明和町)
飛鳥 斎王(伊勢神宮に仕えた未婚の女性皇族)が暮らした宮殿跡で、これまで確認されていた奈良時代をこえ、飛鳥時代の初期斎宮とみられる建物跡が見つかった。
時期は7世紀終わり〜8世紀初めとみられ、「天武天皇が祭祀のために皇族(斎王)を伊勢神宮に派遣した」という「日本書紀」の記述を裏付ける重要な発見である。【三重県立斎宮歴史博物館発表】
2019年
3月
朝鮮出兵を命じた秀吉の朱印状 刈谷市歴史博物館
(愛知県刈谷市)
安土・桃山 古文書の記述により、その存在のみ知られていた、朝鮮出兵を命じた朱印状の「実物」が初めて発見され、朱印の形状や紙質などから本物と判断された。
朱印状は、豊臣秀吉が「文禄の役」に際し加藤清正に宛てたもので、小西行長に続いての出陣を命じるとともに、「決して油断はしないように」との心構えや、「城の守りを固め、皆で相談して進めるように」といった細かい指示も記されている。また、「3月23日」の日付から、1592年4月に出兵する直前のものと推測され、各大名の動向など当時の状況を今に伝える貴重な資料となる。【刈谷市歴史博物館発表】
2019年
5月
平清盛ら平氏一族の拠点「六波羅邸(ろくはらてい)」跡 六波羅政庁(探題)跡
(京都市東山区)
平安 六波羅探題(鎌倉時代の政務機関)跡の調査で、平安時代末期の武家屋敷の遺構とみられる堀跡が出土した。遺構は、平氏一族が拠点として整備した「六波羅」と呼ばれる一帯にあり、堀跡のほかに土塁や、白河天皇陵に類似した石垣なども見つかった。また、出土した遺物などから12世紀前半に整備されたと推定される。平氏の軍事拠点について、文献史料では知られていたが、考古学的に裏付けられたのは初めて。【発掘調査会社「文化財サービス」発表】
2019年
5月
幕末の歴史を知る茶室「有待庵(ゆうたいあん)」発見 大久保利通旧邸跡
(京都市上京区)
江戸 解体工事中の住宅敷地内で、大久保利通の茶室「有待庵」の現存が初めて確認された。有待庵は、薩長同盟以降の政治的な密談に使用された場所で、岩倉具視、坂本龍馬、西郷隆盛が訪れたエピソードも残されているという。発見された地は、1866〜68年まで大久保が住んでいた旧邸跡にあたり、茶室は、薩長同盟が結ばれたとされる薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき)邸「御花畑(おはなばたけ)」から移築されたと伝えられていたが、実在については未確認だった。
(その後、京都市による移築・保存が決定。)【京都市発表】
2019年
6月
墳丘飾る石の出土―被葬者は天皇一族? 平野塚穴山古墳
(奈良県香芝市)
飛鳥 飛鳥時代の皇族の墓と推定される古墳で、墳丘の斜面を飾る張り石が約20点出土した。この張り石は一辺が約15〜30センチメートルで、凝灰岩(ぎょうかいがん)を加工したもの。同様の石材を使った装飾は、斉明天皇の墓とされる牽午子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村)、天武・持統天皇陵に指定される野口王墓古墳(同村)の2例しか確認されていない。天皇陵とみられる二つの古墳と共通の特徴をもつことから、平野塚穴山古墳も斉明天皇の父茅渟(ちぬ)王など皇族の墓である可能性を補強するものと考えられる。【香芝市教育委員会発表】
2019年
8月
最古の宮廷庭園跡から天皇の祭祀用施設 飛鳥京跡苑池(えんち)
(奈良県明日香村)
飛鳥 国内最古の本格的宮廷庭園跡とされる飛鳥京跡苑池で、天皇による祭祀の場と考えられる流水施設が見つかった。南北二つの人工池のうち北池の北東部で出土した遺構は、枡形の石組みから湧き出た水が、石敷き区画の中央部に設けられた溝を流れる仕組みとなっており、周囲には階段状の護岸も確認されている。飛鳥時代の天皇の祭祀にかかわる遺構としては酒船石(さかふねいし)遺跡(同村)に次いで2例目で、古代の天皇祭祀をひもとく貴重な資料となる。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2019年
8月
昭和天皇との面会記録「拝謁記」 昭和 初代宮内庁長官を務めた田島道治氏(故人)が残した、昭和天皇と面会した際のやりとりの記録が公開された。「拝謁記」と題された記録は手帳やノート計18冊、記載されている面会数は600回以上にのぼる。今回公開されたのはその一部だが、戦争への後悔が語られているほか、憲法改正による再軍備への発言内容、平和条約発効後の独立回復式典における「お言葉」の作成過程の詳細などが明らかになった。昭和天皇のありのままの声を後世に伝える第一級の歴史資料と評価される。【NHK発表】
2019年
9月
九条大路・「羅城」の発見と平安京の範囲確定 旧京都市立洛陽工業高校跡地
(京都市南区)
平安 現在の九条通の北約100メートルのあたりから、平安京の南辺にあたる「九条大路」と、城壁である「羅城」基底部の遺構が初めて発見された。これまで東西と北の境界は発見され、南端の位置だけが未確認だったが、今回の調査で四辺が考古学的に実証されて平安京の範囲が確定した。
また出土した九条大路は、人工的に固められた路面(幅約28.8メートル)に南北両側の側溝(各1.2メートル)や築地塀跡などをあわせると、当時の法令集『延喜式』に記された規格(幅約36メートル)と合致することが判明。平安京が『延喜式』の規定に沿って造られた都であることも裏付けられた。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2019年
10月
国家鎮護の大寺院―西寺にも「五重塔」の可能性 国史跡「西寺跡」
(京都市南区)
平安 京都市南区の「西寺跡」で調査が行われ、東寺の五重塔の位置から推定される付近で、塔とみられる建物の跡が見つかった。確認されたのは、柱跡とみられる直径約2メートル、深さ約0.5〜1.2メートルの地盤改良跡12か所で、約3メートルの間隔で碁盤の目状に並んでいる配置は、東寺の五重塔の柱位置と同様であるという。
西寺は、平安京遷都に伴って東寺とともに京の玄関口・羅城門の東西に造営された官営寺院で、東寺とは対照的にその姿は失われている。しかしながら、これまでの調査により伽藍配置は朱雀大路をはさんで、東寺とほぼ左右対称だったことがわかっており、西寺にも五重塔が存在したと考えられていた。
※2020年3月、その後の調査で五重塔の存在が確実視されていることが発表された。
【京都市文化財保護課発表】
2019年
11月
歴史を塗り替える発見か?―足利2代将軍、信長・秀吉らの書状 羽田八幡宮
(愛知県豊橋市)
室町〜江戸 羽田八幡宮文庫旧蔵資料の古文書5点について、それぞれ室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・徳川光圀(みつくに)の書状であることが確認された。特に重要とされるのは義詮が三河守護の仁木義長に宛てた(推定)書状、信長が筒井順慶に宛てた朱印状、秀吉が朝鮮出兵前に宇喜田秀家ら3大名に宛てた覚書の3点。いずれも日本史の研究に大いに役立つものと期待されるが、なかでも足利義詮の書状は、これまでの義詮に対する評価を改めるだけでなく、中世(南北朝期)における政治史を塗り替える可能性もあるとみられている。【豊橋市発表】
2019年
12月
吉備真備直筆の書を発見―国内外で初めて 深圳望野博物館
(中国・広東省深圳市)
奈良 遣唐使として唐に渡った吉備真備が、留学中に書いたとみられる墓誌(死者について概略を記したもの)が中国で発見された。墓誌は、唐の官僚の墓石に刻まれたもので、末尾に「日本国朝臣備書」とあったことから、書いたのは「備」と呼ばれる日本人だと考えられた。日中両国の研究者が、時期・用語の使い方・字体などから検証した結果、真備が書いた可能性が高いと判断した。真備の直筆だとすれば、国内外で初めての発見。加えて、日本人直筆の「日本国」の書としては最古のものになるという。真備の留学生活は二度、期間にして20年近くに及ぶが、詳細は明らかでないため、墓誌はその一端に触れられる史料であると同時に、日中関係史を考察する上でも貴重な史料となると注目される。【中国・文物出版社(北京市)/深圳望野博物館(深圳市)発表】
2018年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2018年
1月
春日大社に最古級の太刀 春日大社
(奈良県奈良市)
平安 春日大社の所蔵する太刀が、「古伯耆物(こほうきもの)」とよばれる最古級の日本刀であることがわかった。この太刀は、約80年前の1939(昭和14)年に宝庫で発見されたもので、刃長82.4センチメートル。さびを落として調査した結果、「反り」など現在の日本刀の形が成立した平安時代後期に伯耆国(現:鳥取県)でつくられたものと推定される。使用・研磨の跡がほとんどなく制作時の姿をそのまま伝えていること、鞘(さや)などの外装は中世の武士が用いたものであることなどから、平安時代から続く武家が南北朝〜室町時代初期に奉納したものと考えられる。【春日大社発表】
2018年
3月
高床建物5棟が描かれた弥生土器 中河原(なかがわら)遺跡
(大阪府茨木市)
弥生 大阪府茨木市の中河原遺跡で、切り妻屋根の高床建物5棟が描かれた弥生時代中期後半(約2000年前)の土器片9点が出土した。接合後の大きさは、縦21.5センチメートル、横25.5センチメートル。絵は豊作を祈る祭祀の場を表現しているとみられ、屋根飾りや高床の柱など建物の構造が同じであるとわかるほど明瞭に描かれているのが特徴。5棟以上の建物が描かれた弥生土器はこれまでにも2例あるが、切り妻屋根の建物だけの土器は全国で初めて。【茨木市教育委員会発表】
2018年
5月
邪馬台国と同時代?纒向(まきむく)遺跡の「桃の種」 纒向遺跡
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 邪馬台国の有力な候補地とされる纒向遺跡で出土した「桃の種」が、放射性炭素年代測定の結果、卑弥呼の時代と重なる西暦135〜230年のものとみられることがわかった。この種は、「卑弥呼の宮殿」との説がある大型建物跡(3世紀前半〜中ごろ)近くから発見されたもので、科学的に建物の年代を測定すると同時に、邪馬台国の所在地論争に一石を投じる資料であると注目されている。【桜井市纒向学研究センター発表】
2018年
5月
幻の「吉野宮」の正殿か? 宮滝遺跡
(奈良県吉野町)
飛鳥〜奈良 天皇が行幸した離宮「吉野宮」(飛鳥〜奈良時代)の所在地として有力視されている宮滝遺跡で、奈良時代前半の大型建物跡が発見された。建物跡の規模は東西23.7メートル、南北9.6メートルで、四方に庇(ひさし)がついている。この建物構造は、天皇の宮殿だけに許された最上級の規格であることから、吉野宮の中心施設である正殿の可能性が高く、「遺跡が吉野宮であることを決定づけた」としている。【吉野町教育委員会・県立橿原考古学研究所発表】
2018年
6月
最古級の日本地図「日本扶桑国之図」(にほんふそうこくのず) 広島県立歴史博物館
(広島県福山市)
室町 日本図全体(北海道を除く)が残るものとしては最古の地図が新たに確認された(現存するさらに古い地図2点は一部が欠損)。地図には、京都を中心に68の国や街道が描かれ、国名・人口などが記されている。鎌倉・室町時代の地図の特徴をともに備えており(鎌倉=沖縄を「龍及国」と表記、室町=港町の地名の多さ)、室町時代(14世紀中ごろ)の作とみられる。このような地図はこれまでになく、日本地図の変遷をたどるうえで貴重な資料となる。【広島県立歴史博物館発表】
2018年
7月
国内最古級の鉄器製造工房 加茂宮ノ前遺跡
(徳島県阿南市)
弥生 弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20か所が見つかり、そのうち10か所から鉄器を製作するための鍛冶炉(直径30〜40センチメートル)や、鉄器の整形や仕上げに用いた道具類などが出土した。同時代の鍛冶炉は他の遺跡でも見つかっているが、鍛冶炉を備えた住居跡が集落の半数にのぼる例は全国的にも特異で、大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。【徳島県教育委員会・徳島県埋蔵文化財センター発表】
2018年
8月
「日本最古」300年前の押し花 諏訪市博物館
(長野県諏訪市)
江戸 博物館に寄贈された「押し花・押し葉」が、採取された年月日・場所、採取者などの記録がある日本産植物資料としては、国内最古のものであることが判明した。この「押し花・押し葉」が製作されたのは約300年前の享保年間。採取時期は明確なもので1719〜24年、採取者は江戸中期の高島藩士・渋江民右衛門古伴(ひさとも)で、サクラやウメ、マツなど25点あり、約半数は現在の関西地域で採取されたと考えられる。【国立科学博物館・諏訪市博物館発表】
2018年
8月
修好通商条約に押印の徳川埋蔵印発見 コ川記念財団
(東京都渋谷区)
江戸 江戸幕府14代将軍の徳川家茂、15代将軍の徳川慶喜が使用した幕府の銀印が、150年ぶりに徳川宗家の蔵から発見された。銀印は、「国家元首」として外交文書に押印したもので、印面は縦・横ともに9.2センチメートル、「経文緯武」*と刻印され、重さは2.7キログラム。1858年に締結された日米修好通商条約の批准書などに押された印の、実物である。
*「文を経(たていと)にし、武を緯(よこいと)にす」と読み、布を織ることにたとえて「文武両道を重んじて国を治めること。政治の理想的な姿」を表す【コ川記念財団発表】
2018年
10月
実在した鹿苑寺「幻の池」 鹿苑寺(金閣寺)
(京都府京都市)
室町 江戸時代の絵図「北山鹿苑寺絵図」(1790年)に描写が残るのみで、実態が不明だった「幻の池」が発見された。池跡は金閣に面した鏡湖池(きょうこち)の南側で出土し、規模は東西約76メートル、南北約45メートル。足利義満が「北山殿(きたやまどの)」*を整備した14世紀末ごろの造成だと考えられるが、水を張った痕跡はなく、未完成だった可能性が高いという。建物跡も発見されており、「北山殿」の全容を検証する貴重な基礎資料として注目される。
*義満が晩年を過ごした別荘。義満没後、遺言により鹿苑寺となった。【鹿苑寺発表】
2018年
10月
「家康の駿府城(すんぷじょう)」から「秀吉の天守台」発見 駿府城跡地
(静岡県静岡市)
安土桃山〜江戸 徳川家康が築いた天守台の南東角に重なる形で、豊臣期に築かれたもう一つの天守台(石垣)が見つかった。発見された天守台は東西33メートル、南北37メートル。付近からは天守閣を飾っていたと思われる大量の金箔瓦(きんぱくがわら)も出土しており、瓦の特徴が示す時代や金箔の使用は権力者にしか許されなかったことなどから、秀吉が築かせたものに間違いないという。駿府城は家康が築城後、秀吉による国替えで豊臣方の中村一氏が入城したとの記録が残るが、実態はわかっていなかった。幻とされてきた「秀吉の城」の存在が裏付けられたのは、今回が初めて。この天守台を覆うように築かれた家康の天守台は、東西61メートル、南北68メートルと日本最大規模であることが判明しており、秀吉は豪華さで、家康は規模の大きさで、「相手を牽制し自らの威光を誇示」するシンボルだったと考えられる。なお、秀吉と家康の天守台の遺構が同じ場所に現存するのは駿府城のみで、駿府城が家康の拠点というだけでなく、豊臣方にとっても戦略上重要な城であったことがうかがえる。【静岡市発表】
2018年
11月
縄文時代のクルミが詰まった編み籠(かご) 鷺内(さぎうち)遺跡
(福島県南相馬市)
縄文 縄文時代晩期(約3000年前)の低地性土坑(地下水が湧くたて穴)から、縄文人の主食の一つであるクルミが大量に詰まった状態の編み籠が出土した。竹やササ類で編まれた籠は縦33センチメートル、横20センチメートル。直径3.5センチメートルほどのオニグルミ数百個が詰まっていた。水につかっていたために保存状態がよく、ほぼ完全な状態での出土は全国でも初めて。土坑は木の実の貯蔵やあく抜き、殺虫などに利用していたと考えられ、縄文人の食文化や生活様式を探る貴重な資料になるとしている。また、出土した他の籠やざるなどの保存状態も良好で、縄文時代の編み物細工の素材や技術の研究が進む可能性もあるという。【南相馬市教育委員会発表】
2018年
12月
快慶の弟子・行快(ぎょうかい)作の仏像発見 聞名寺(もんみょうじ)
(京都府京都市)
鎌倉 聞名寺の本尊「木造阿弥陀三尊像」が鎌倉時代の仏師・快慶の一番弟子とされる行快の作であることがわかった。仏像は、阿弥陀如来立像、勢至(せいし)菩薩立像、観音菩薩立像の三体で、左右の菩薩立像の足ほぞ(像を台座に取り付けるための足裏の突起部分)に『法眼行快(ほうげんぎょうかい)』などの墨書きが見つかったことから判明。中央の像も作風から、行快の作と判断された。いまだ生没年も不詳の行快について、検証を進める貴重な発見といえる。【京都国立博物館発表】
2017年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2017年
1月
「新国家」坂本龍馬の書簡   江戸 坂本龍馬が暗殺される5日前に書いたとみられる書簡が新たに発見された。書簡は、縦約16センチメートル、横約92センチメートル、11月10日の日付。1867 (慶応3)年の大政奉還を受けて奔走するなか、福井藩重役の中根雪江に宛てられたもので、同藩士三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当として早急に出仕させるよう懇願する内容となっている。また、書簡の中に「新国家」という言葉が初めて確認されたことにより、龍馬が死の直前まで「近代国家・日本」の樹立に尽力していたことを示す重要な史料とされている。【高知県発表】
2017年
1月
沖縄で東北の縄文土器 平安山原(はんざんばる)B遺跡
(沖縄県北谷町)
縄文 縄文時代に東北地方を中心に分布した土器の破片が沖縄で出土した。土器片は、縄文晩期の土砂から発掘されたもので、「工字文(こうじもん)」とよばれる迷路のような文様や装飾の顔料の特徴から大洞系(亀ヶ岡式)土器である可能性が高いことが確認された。これまでは鹿児島県の離島が南限であり、沖縄での発見は初めて。北谷町では、装飾品に使われた新潟県産ヒスイも出土しているが、生活用品である土器の出土は広域な交流を示す資料として意義深く、さらなる交流品の発見や東日本で沖縄産の交流品が出土する可能性へ期待がつながる。【北谷町教育委員会発表】
2017年
2月
最古級の江戸城図面「江戸始図(えどはじめず)」 松江歴史館
(島根県松江市)
江戸 「江戸始図」が、徳川家康が築城した江戸城を描いた最古級の図面であることがわかった。これまで最古とされていた「慶長江戸絵図」(東京都立中央図書館所蔵)とほぼ同時期だが、熊本城のように複雑なつくりの本丸内部など、中心部の詳細が確認できるという。また実態が不明だった初期の天守については、姫路城のように大小の天守が連結する形であったことが判明。絵図からは、豊臣氏との決戦に備えて他の城の優れた部分を取り入れた、強固な防衛機能をもつ江戸城の姿が見てとれる。【松江歴史館発表】
2017年
2月
道鏡ゆかりの「由義(ゆげ)寺」の遺構 東弓削(ひがしゆげ)遺跡
(大阪府八尾市)
奈良 奈良時代の女帝・称徳天皇とその寵愛により権力を握った僧・道鏡が建立した「由義寺」跡とされる遺跡から、塔とみられる建物の基壇(土台)が見つかった。「由義寺」は『続日本紀』に登場する記述でしか確認されてこなかったため、今回の遺構の発見は、その存在を裏付けるものとなる。発見された基壇は1辺約20メートルの正方形、高さ70センチメートルで、その規模から塔の高さは60〜70メートルと推定され、七重塔だった可能性があるという。【八尾市教育委員会・八尾市文化財調査研究会発表】
2017年
3月
飛鳥時代最大級の古墳 小山田(こやまだ)古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 2014年に巨大な掘割(ほりわり)が発見された奈良県明日香村の小山田遺跡で、最近の調査により石室の痕跡が見つかり、この遺跡が巨大な古墳であることが明らかになった。「小山田古墳」と命名されたこの古墳は、一辺が約70メートルで、飛鳥時代で最大級の方墳だと考えられる。
この墓は、舒明(じょめい)天皇、もしくは、蘇我蝦夷(そがのえみし)のものであるとの説が現時点では有力である。【県立橿原考古学研究所発表】
2017年
4月
尼崎の『下地中分絵図(したじちゅうぶんえず)』 東大寺宝珠院
(奈良県奈良市)
鎌倉 近畿地方を描いたものとしては初めてである下地中分絵図が発見された。下地中分絵図とは、日本の中世において、荘園の領主と地頭の間で争われた領地の境界が決定した際に作られた図である。今回発見された下地中分絵図は、鎌倉時代の摂津国の荘園杭瀬荘(くいせのしょう)、現在の兵庫県尼崎市付近の地区の領有を争っていた領主の東大寺側と地頭が、1318(文保2)年3月に作成した図であることが明らかになった。
図には耕地、またその各耕地の責任者の名前が記されており、当時の尼崎の様子がよくわかるものとなっている。【東京大学史料編纂所 西田友広助教発表】
2017年
6月
坂本龍馬「最長」の手紙 (北海道) 江戸 坂本龍馬が兄・権平らに宛てて書いた手紙が新たに6枚発見された。この手紙は龍馬の手紙の中で「最長」とされており、原本が確認されたのは初めてである。
手紙には、1866(慶応2)年の寺田屋事件の様子や、同年におきた幕府と長州の戦争の様子が描写されている。また、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛、長州藩の高杉晋作らの名前も手紙に登場し、彼らとのエピソードも書かれている。
手紙は、北海道の男性が所有しており、高知県は購入を決めたと発表した。【高知県文化資料収集審査会発表】
2017年
7月
銅剣柄飾り 土製鋳型 須玖(すぐ)タカウタ遺跡
(福岡県春日市)
弥生 弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)の銅剣につける把頭飾(はとうしょく)の土製鋳型が福岡県にある須玖タカウタ遺跡で見つかった。国内初の確認であると同時に、朝鮮半島を含め土製鋳型の出土は初めてである。
把頭飾とは銅剣の柄の先端につける飾りで、石製と青銅製のものがあり、青銅製は鋳型で製作された。
今回の出土により、日本列島で金属器生産の開始期から高度な鋳造技術を持っていたことがわかり、また、把頭飾が国内で製作されていたことがはっきりした。【福岡県春日市教育委員会発表】
2017年
7月
鉄製やりがんな 八日市地方(ようかいちじかた)遺跡
(石川県小松市)
弥生 柄つき鉄製やりがんなが石川県の八日市地方遺跡から出土した。これは、木製の柄のついた完全な形のものとしては国内最古とされる。
やりがんなは、木材の表面を削る工具であり、法隆寺など飛鳥時代の寺社建築などでも使われていた。
今回出土したものは、弥生時代中期前半のものとみられるが、国内で鉄器生産が始まるのは弥生中期後半以降とされている。そのため、刃は海外から持ち込まれたものであった可能性が高い。【石川県埋蔵文化財センター発表】
2017年
7月
秀吉から茶々へのラブレター (兵庫県豊岡市) 安土桃山 豊臣秀吉が側室の茶々(淀殿)に宛てた直筆の手紙が見つかった。茶々に宛てた秀吉直筆の手紙はこれまでに5点しか確認されておらず、新たな史料の発見は少なくとも79年ぶり、戦後初めてである。また、秀頼の幼名「拾(ひろい)」と書かれていることから、この手紙は1593(文禄2)年8月から1596(文禄5)年閏(うるう)7月の間に書かれたものであると推測される。その当時、秀吉は50代、茶々は20代であった。
病を患っていた茶々を優しく気遣う内容から、秀吉が茶々を非常に大切にしていたことがうかがえ、また、家族への深い愛情も確認できる。【兵庫県立歴史博物館、東京大学史料編纂所発表】
2017年
8月
平仮名で平安和歌刻む土器 ケカチ遺跡
(山梨県甲州市)
平安 山梨県にある平安時代の集落跡ケカチ遺跡で、平仮名で和歌が刻まれた10世紀半ばの土器が見つかった。甲斐型土器とよばれる素焼きの土師器(はじき)の皿の内面に、惜別の和歌1首が刻まれている。一部欠損しているが、歌のほぼ全文が判読できる状態である。特徴や土の種類から、『古今和歌集』が編纂された10世紀初頭からまもなくの時期に製作されたとみられる。
この時代の平仮名のみで書かれた和歌1首が丸ごと刻まれた土器の出土は初めてである。これは、9世紀末ごろからとされる平仮名の確立時期を裏付ける上で重要であると同時に、平仮名の中央から地方への伝播を知る上でも非常に重要な資料となる。【甲州市、甲州市教育委員会発表】
2017年
10月
東大寺東塔を囲む「複廊」の回廊 東大寺東塔院跡
(奈良県奈良市)
奈良・鎌倉 東大寺の東塔(奈良時代に創建→南都焼き打ちで焼失→鎌倉時代に再建→再び焼失)を中心とする東塔院跡から、塔を囲む回廊や四方に配された門のうち南門とみられる遺構が発見され、南門の大きさが東西約13メートル、南北約7メートルであること、回廊のうち南面は、壁を中心として両側に通路がある「複廊」構造だったことが判明した。複廊は、奈良時代の宮殿や大寺院で流行したことから格式の高さを示し、塔の重要性を構造からも裏付けている。そもそも塔だけを囲む回廊をもつ寺院はめずらしいうえ、複廊なのは、現在わかっている中では東大寺だけだという。【東大寺発表】
2017年
10月
「足利尊氏像」肖像画の写し発見 室町 室町幕府の初代将軍・足利尊氏の死後まもない14世紀末ごろに描かれたとみられる肖像画の写しが発見された。肖像画は、下部に正装して着座する人物が描かれ、上部には人物の来歴がつづられているが、そこに尊氏の業績として知られる事実が記されていること、尊氏を示す言葉があることなどから判断された。また室町時代に描かれた1点しかない別の肖像画や木像にも似ており、意見が分かれる尊氏の顔立ちを伝える貴重な資料だと評価される。なお近年の研究により、最近まで教科書などで尊氏像として紹介されてきた「騎馬武者像」は別人である可能性が指摘されている。【栃木県立博物館発表】
2017年
11月
墨が付着した硯(すずり) 薬師ノ上(やくしのうえ)遺跡
(福岡県筑前町)
弥生 福岡県で2003年に出土した石製品が、弥生時代中期初頭〜後期(紀元前1世紀〜後2世紀)の硯とみられることがわかった。石製品は長さ約15センチメートル、幅5〜6センチメートル、厚さ約1センチメートル。二つに割れているがほぼ完全な形で、表面に当時使用されていた墨と思われる炭化物が付着している。弥生時代の硯は数例発見されているが、墨が残る完全な形での出土は初めてで、当時の日本で文字が書かれていた可能性を示す貴重な発見とされる。【福岡県筑前町発表】
2017年
11月
顔料で人の顔が描かれた縄文時代の石製品 幸連(こうれん)5遺跡
(北海道木古内町)
縄文 顔料で人の顔が描かれた縄文時代の石製品が北海道の竪穴住居跡から出土した。縄文の出土品で顔料を使って人体像が描かれたものはあったが、人の顔が描かれたものは例がなく全国で初めて。出土した石製品は成形された逆正三角形の板状で、一辺12〜13センチメートル、厚さ1.4センチメートル。およそ4300年前のものとみられる。祭祀などに使用された可能性があり、縄文人の精神文化を理解する一助となると考えられる。【北海道埋蔵文化財センター発表】
2017年
12月
「国内最古」のクリ お宮の森裏遺跡
(長野県上松町)
縄文 縄文時代草創期の「お宮の森裏遺跡」の竪穴住居跡から出土し保存していたクリの実が、年代測定の結果、約1万3000年前のものと確認された。これまでに発見されているものより古く、食用のクリとしては国内最古だという。クリの実は原形をとどめている縦横1センチメートルのもの2個とかけら約870点。皮がむかれ中央部に穴が開けられている状態で、縄文人の暮らしぶり、食生活を知るうえで価値ある資料である。【上松町教育委員会発表】
2016年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2016年
1月
秀吉の書状33通 龍野神社
(兵庫県たつの市)
安土・桃山 羽柴(豊臣)秀吉が家臣の脇坂安治(わきざかやすはる)に宛てた朱印状33通が、発見された。「天下人」の書状がまとまって見つかるのは異例。
書状は、本能寺の変後の約10年間分。天下統一や朝鮮出兵において、しつこいほどに細かな指示や叱責を飛ばしていた様子がうかがえる。【兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館・東京大学発表】
2016年
1月
多胡碑(たごひ)周辺で大規模倉庫跡 (群馬県高崎市) 奈良 高崎市にある「上野三碑(こうずけさんぴ)」のひとつ、「多胡碑」周辺で、碑と同時代の大規模な倉庫跡が見つかった。711年に朝廷の命令で多胡郡がつくられたという碑の記述を裏付ける。
東西16.8メートル、南北7.2メートルと規模が大きく、奈良時代最高級の建築様式とされる総瓦ぶきの礎石(そせき)建物。多胡郡設置が国家的事業であったことがうかがえる。【高崎市教育委員会発表】
2016年
3月
最古級の硯(すずり) 三雲・井原遺跡
(福岡県糸島市)
弥生 「魏志」倭人伝に登場する伊都国(いとこく)の都である同遺跡から、石製の硯の一部が見つかった。長さ6.0センチメートル、幅4.3センチメートル、厚さ0.6センチメートルの破片で、片面が研磨(けんま)されていた。「魏志」倭人伝によると、伊都国は外交使節が滞在する場所で、文書類を点検する外交業務も担ったという記述がある。硯の発見で、同遺跡内で文書の作成が行われていた可能性が高まった。【糸島市教育委員会発表】
2016年
4月
イタリア人宣教師シドッチの遺骨 切支丹(きりしたん)屋敷跡
(東京都文京区)
江戸 シドッチは、1708年に屋久島に潜入し捕らえられ、江戸の切支丹屋敷に収容されたイエズス会宣教師。新井白石がシドッチを尋問してまとめた『采覧異言(さいらんいげん)』『西洋紀聞』がある。シドッチは牢の世話人の日本人夫妻を入信させた罪で地下牢に収監され、そのまま獄死(ごくし)した。人骨は国立科学博物館によるDNA鑑定で、身長170センチメートル超のイタリア人中年男性のものと判明し、文献などからシドッチと特定された。【東京都文京区発表】
2016年
5月
前方後円墳のルーツの墓? 瀬田遺跡
(奈良県橿原市)
弥生 2世紀中ごろ〜後半の弥生時代末期のものとみられる陸橋つきの円形周溝墓(しゅうこうぼ)が見つかった。円の直径は約19メートル、周囲を幅約6メートル、深さ約60センチメートルの溝で囲われていた。南側の陸橋は、台形状で短辺約3メートル、長辺約6メートル、長さ約7メートルあった。前方後円墳は陸橋部が次第に大きくなって前方部に発展したという説があり、この周溝墓は、「前方後円墳のルーツとなる可能性がある」と唱える専門家もいる。【奈良文化財研究所発表】
2016年
7月
幻の七重塔の相輪(そうりん)? 鹿苑寺境内
(京都府京都市)
室町 足利義満が建立したとされる七重塔「北山大塔(きたやまたいとう)」の相輪とみられる破片3つが見つかった。最大のもので縦24.6センチメートル、横37.4センチメートル、厚さ1.5センチメートル、重さが8.2キログラムもあり、表面に金メッキが施されていた。相輪は仏塔(ぶっとう)の屋根の上に突き出た装飾物で、破片を復元すると、直径2.4メートルと推定される。現存する最大の木造仏塔である東寺(とうじ)の五重塔の相輪は、直径1.6メートルであり、それをしのぐことから、「北山大塔」の可能性があるという。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2016年
9月
世界最古の釣り針 サキタリ洞遺跡
(沖縄県南城市)
旧石器 2万3000年前の世界最古の釣り針が見つかった。幅1.4センチメートルの貝製の釣り針で、同じ年代の地層から魚の骨も出土した。同遺跡では、3万年前の人骨も見つかっており、3万5000年前〜1万3000年前の地層に、モクズガニのはさみとカワニナ(巻き貝)の貝殻なども断続的に見つかっている。同遺跡で人類が生活していたことを裏付けるものとなった。【沖縄県立博物館・美術館発表】
2016年
9月
国内最古の幢幡(どうばん)遺構 藤原宮跡
(奈良県橿原市)
飛鳥 国家の重要儀式の際に使用された幢幡とよばれる旗竿(はたざお)を立てたとみられる遺構が見つかった。見つかったのは7つの柱穴で、各穴の深さは約80センチメートル〜1メートル、柱の太さは直径約70センチメートルと推定される。『続日本紀』によると、正面にカラス、東側には太陽・青竜(せいりゅう)・朱雀(すざく)、西側には月・玄武(げんぶ)・白虎(びゃっこ)の計7本の旗が立てられたと記され、見つかった柱穴の数と配置が記述と一致した。【奈良文化財研究所発表】
2016年
10月
入れ替わっていた『鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)』の順序 高山寺
(京都府京都市)
平安〜鎌倉 絵巻物『鳥獣戯画』甲巻の絵の順序が入れ替わっていたことが、紙に残ったはけの跡の調査からわかった。現在の23枚目と11枚目は、紙をすいて乾かす段階でついたはけの跡がつながっており、もとは1枚の紙であったことが判明した。現在の16〜23枚目のあとに11〜15枚目が続くものが、制作当初の順番であったと考えられる。入れ替わった時期や経緯については、不明だという。【『鳥獣戯画 修理から見えてきた世界』(修理報告書)にて発表】
2016年
11月
神功開宝(じんごうかいほう)が知床で出土 チャシコツ岬上(みさきうえ)遺跡
(北海道斜里町)
9世紀ごろ 知床半島にある同遺跡の地層から、本朝十二銭の一つである神功開宝が出土した。国内最北の出土例となる。9世紀ごろまで、オホーツク海沿岸では、海洋狩猟民族による「オホーツク文化」が栄えていた。本朝十二銭は北海道内でも出土例はあるが、この地域からの出土は今回が初である。オホーツク文化が北海道南部を経由し、律令国家との交流があった可能性を示す貴重な資料だとしている。【斜里町教育委員会発表】
2016年
12月
薬師寺東塔、平城京での「新築説」確定 薬師寺
(奈良県奈良市)
奈良 解体修理が進む薬師寺東塔で、心柱(塔の中心柱)などの木材271点の年輪年代測定が実施された。その結果、1階の天井板2点は729年と730年の伐採と判明。心柱の最も外側の年輪は719年を示した。伐採年が、平城京遷都(710年)以前を示す結果は確認されなかった。
薬師寺は680年に藤原京内に創建されたが、平城京遷都にともない現在地へ移転した。東塔をめぐっては、藤原京からの「移築説」と平城京での「新築説」で論争が繰り広げられていたが、「新築説」が科学的に裏付けされ、「移築説」は否定されることとなった。【薬師寺・奈良文化財研究所発表】
2015年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2015年
1月
明日香から未知の遺構 小山田遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 小山田遺跡で、約48メートルにわたって石材を張りつけた巨大な掘割(ほりわり)が見つかった。7世紀中ごろに築かれた未知の古墳の一部とみられる。
墳丘に、結晶片岩と奈良県東部産の榛原石(はいばらいし)を積み上げる特殊な構造をしており、墳丘裾部は一辺50〜80メートル程度の方形だったと推定。蘇我馬子の墓を上回る規模や特殊な構造、立地などから、舒明(じょめい)天皇あるいは蘇我蝦夷(そがのえみし)の墓と推測される。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2015年
2月
『方丈記』の大地震を裏づけ 東山
(京都府・滋賀県)
平安 京都を襲った大地震で起こったとみられる土砂崩れの跡が確認された。1185(元暦2)年に起きた地震で、規模はマグニチュード7.4、琵琶湖西岸の活断層の一部が動いたと推定される。その惨状は『方丈記』や『平家物語』にも描かれており、記述を裏づける珍しい発見となった。この地震で山が荒廃し、荒地に強いアカマツが増えるなど、植生(しょくせい)にも影響したとみられる。【京都大学防災研究所 釜井俊孝教授ら調査】
2015年
3月
藤原定家(さだいえ)・為家(ためいえ)親子の書 (東京都) 鎌倉 鎌倉時代の歌人である藤原定家と、その息子の為家の書が見つかった。父子の直筆が並んだものは珍しい。
書は、縦約30センチメートル、横約2.5メートル、和紙5枚がつないである。定家の父で歌人の俊成(としなり)の90歳の祝いのため、1203年に後鳥羽上皇が催した歌会にあわせて記された。上皇の歌など20首以上が収められている。
2015年
5月
「奈良京」表記した最古の木簡 平城京跡
(奈良県奈良市)
奈良 平城京を意味する「奈良京」と書かれた木簡が、平城宮跡西側で発見された。平城京の造営跡から45点出土した木簡のひとつで、左半分が欠けているものの、「奈良京」の文字が見受けられる。
710年の平城遷都(せんと)当時のものとみられ、762年の正倉院文書とされてきた「奈良京」表記の初出(しょしゅつ)を半世紀さかのぼる。【奈良文化財研究所発表】
2015年
5月
国内最古となる鏡の鋳型(いがた) 須玖(すぐ)タカウタ遺跡
(福岡県春日市)
弥生 国内最古となる弥生時代中期前半(紀元前200年ごろ)の青銅鏡の鋳型が見つかった。国産鏡の登場は紀元前後とされてきたが、150〜200年ほどさかのぼる。
出土したのは、複数のつまみを持つ「多鈕鏡(たちゅうきょう)」の鋳型の破片で、復元すると直径15センチメートルほどになる。多鈕鏡はすべて朝鮮半島製とする定説を覆し、金属器文化の到来とともに鏡の国内生産が始まったことを示す。【春日市教育委員会発表】
2015年
7月
「皇太子」と記された木簡 平城京跡
(奈良県奈良市)
奈良 平城京跡で出土した約4400点の木簡片などの中から、「皇太子」と書いたとみられる木簡片が初めて確認された。「二人皇」と「太子」と書かれた2つの木簡片は、元は同じ木簡で、「二人皇太子」と皇太子付の役人数を書いたものと推測される。同時に出土した木簡の年号から、「皇太子」は聖武天皇が即位する前の「首皇子(おびとのみこ)」を指すとみられる。【奈良文化財研究所報告】
2015年
7月
キトラ天文図は中国の夜空? キトラ古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 文化庁などが共同研究で、キトラ古墳の天文図の観測地・年代を分析した。その結果、古代中国王朝の都である長安や洛陽などで観測した原図を基にした可能性が高いことがわかった。年代については意見が割れたが、古墳造営の数百年前とみられる。【文化庁・奈良文化財研究所など発表】
2015年
8月
銅鐸の使用法判明? 淡路島
(兵庫県南あわじ市)
弥生 淡路島の石材セメント製造会社の砂置き場から見つかった「松帆(まつほ)銅鐸」の調査で、謎の多かった銅鐸使用法の解明に近づいた。
同年4月に見つかった銅鐸は、「入れ子」状態の3組計6個と破損した1個の計7個。砂が詰まった状態の内部をCTスキャンし、音を鳴らすための「舌(ぜつ)」が発見された。さらに砂を除去したところ、舌の先端にひもの一部が通っていることがわかった。また、銅鐸の釣り手にもひもを巻きつけた痕跡があり、何かにつり下げて鳴らしていたとみられる。【兵庫県教育委員会発表】
2015年
11月
かなで「難波津(なにわづ)」の歌全文 平安京跡
(京都府京都市)
平安 『古今和歌集』の有名な「難波津」の歌の全文を記したとみられる木簡が見つかった。2行にわたって墨書され、右側に「難波津」の歌、左側に散文と思われる文章が記されている。
平安時代前期(9世紀後半)に書かれたもので、音を漢字で表した万葉がなではなく、ひらがなに近い文字が使われていた。ひらがなの成立や普及を知るための貴重な資料。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2014年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2014年
1月
吉田松陰の辞世 井伊美術館
(京都府京都市)
江戸 「安政の大獄」で死罪となった、幕末の思想家、吉田松陰の自筆とみられる辞世が発見された。松陰にとって政敵である幕府大老、井伊直弼の側近である長野主膳(しゅぜん)の手紙等を貼り付けた巻物の中から発見された。敵側である主膳が最後まで松陰の動静に関心を寄せていたことを物語る貴重な資料とされる。【井伊美術館発表】
2014年
2月
纏向(まきむく)遺跡建物跡 纏向遺跡
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 纏向遺跡で2009年に発見された3世紀前半の大型建物跡の東側から、新たに建物跡1棟が見つかった。大型建物跡とその西側に見つかっている2棟の建物跡と東西に同一線上に並び、同時期のものと考えられる。纏向遺跡は邪馬台国の有力候補地とされ、大型建物群が邪馬台国の中枢施設であった可能性が指摘されている。【奈良県桜井市教育委員会発表】
2014年
2月
国内初 旧石器時代の貝器(かいき) サキタリ洞(どう)遺跡
(沖縄県南城市)
旧石器 沖縄県のサキタリ洞遺跡で、約2万年前の貝器(貝製道具)が見つかった。旧石器時代の貝器が発見されるのは国内で初めて。人骨も同時に出土し、骨と道具がそろった国内最古の例という。
沖縄は石灰岩地帯が多く、酸性土壌の本土ではほとんど見つからない旧石器時代の骨が多数発見されているが、これまでは道具が見つかっていなかった。サキタリ洞遺跡は「港川人(みなとがわじん)」が発見された港川フィッシャー遺跡から約1.5キロメートルと近く、日本人の起源を探る手がかりとなることが期待される。【沖縄県立博物館・美術館発表】
2014年
3月
讃岐国府の場所が特定 (香川県坂出市) 奈良〜平安 香川県埋蔵文化財センターの発掘調査から、古代の讃岐国府の場所がほぼ確定された。
所在地については明治時代から論争が続いており、センターは「讃岐国府跡探索事業」と題して2009年から調査を続けていた。調査から、瓦ぶきの塀や四角い大型の柱穴(ちゅうけつ)を持つ建物跡が見つかっており、役所で使われたと思われる硯(すずり)などが過去に出土していたことから、国府跡だと推定された。国府は、8〜10世紀にかけて、同じ場所に存続していたとみられる。【香川県埋蔵文化財センター発表】
2014年
3月
埼玉(さきたま)古墳群に粘土の塊、三重目の堀 埼玉古墳群
(埼玉県行田市)
古墳 埼玉古墳群のひとつ、鉄砲山古墳から巨大な粘土の塊や三重目の堀などが見つかった。
粘土の塊は、横穴式石室を塞ぐために使われ、石や礫(れき)以外のものが使われることはまれ。また、三重目の堀は、従来知られていた二重目の堀の約5メートル外側で確認され、幅は約10メートルである。このほか、祭祀を行う「前庭部」や須恵器の甕(かめ)も出土している。【埼玉県立さきたま史跡の博物館発表】
2014年
5月
伊能忠敬以前の享保年間に作製された日本地図の測量原図 広島県立歴史博物館
(広島県福山市)
江戸 江戸時代の享保年間(1716〜36年)に作製された日本地図の測量原図が、広島県立歴史博物館に寄託された古地図の中から見つかった。19世紀初めに作られた伊能忠敬の日本地図より1世紀前に作製され、精度も高い。文献などから、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が命じて作らせたものだとみられ、現物が確認されたのは初めて。
縦152センチメートル、横336センチメートル、縮尺は21万6千分の1の地図で、北海道南部から種子島までの範囲である。地点間の見通しで位置を確定する「望視交会法(ぼうしこうかいほう)」という当時の測量法が用いられ、見通し線が書かれている。【広島県立歴史博物館発表】
2014年
6月
本能寺の変の謎に迫る 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の手紙 林原美術館
(岡山県岡山市)
安土・桃山 本能寺の変の直前に、明智光秀の重臣斎藤利三(としみつ)あてに長宗我部元親が送った手紙が見つかった。織田信長が一方的に変更した四国政策を元親が受け入れ、臣従(しんじゅう)する姿勢を示したことが初めて確認された。
当初、元親と信長は友好関係にあったが、急速に勢力を広げる元親に対して信長は四国征服を認めなかったため、関係が悪化。仲介役を担っていた光秀は両者の間で板ばさみとなっていた。
この四国政策転換で光秀が面子(めんつ)を潰されたことが、本能寺の変の動機として近年では有力である。今回の手紙は信長と光秀の確執の解明に役立つ史料といえる。【林原美術館・岡山県立博物館発表】
2014年
7月
太閤検地以前の台帳 秀吉の自筆入り たつの市立龍野歴史文化資料館
(兵庫県たつの市)
安土・桃山 羽柴(豊臣)秀吉の自筆入りで、太閤検地以前に田畑の面積や年貢高を記した台帳が見つかった。
指出(面積や生産高に関する土地所有者らの自己申告)をまとめたもので、「淡路二郡指出帳(あわじにこおりさしだしちょう)」と題されている。地名や年貢米の石高、年貢銭などを約100枚にわたって詳細に記述。奥付に秀吉自ら合計石高や作成日を書き、朱印を押していた。
太閤検地の本格実施の前に作られた指出帳とみられ、秀吉の治世初期の検地方法や領地分配の手続きがわかる貴重な史料である。【兵庫県たつの市発表】
2014年
7月
警視庁名簿に「斎藤一(はじめ)」 霊山(りょうぜん)歴史館
(京都府京都市)
明治 新選組三番隊組長で知られる斎藤一とみられる名前が、明治初期の警視庁の名簿に見つかった。名簿時期は、斎藤が警視庁にいたとされる時期とほぼ一致。
名簿によると、斎藤の階級は「等外一等出仕」、役職名は「書記兼戸口取調掛(とりしらべがかり)」。住宅や住民の数を調べる役職とみられるが、スパイ活動を担当し、籍だけ置いていたと推測される。斎藤は、明治維新後に藤田五郎の名で警察官になっており、新選組時代の名前が記された警察資料は極めてまれ。【霊山歴史館発表】
2014年
8月
異例のピラミッド状古墳 都塚古墳
(奈良県明日香村)
古墳 都塚古墳の墳丘部から、石を積み上げた階段状遺構が出土し、国内では類のない、ピラミッド状の大型方墳であることがわかった。
東西約41メートル、南北約42メートル、高さ4.5メートル以上と天皇陵にも迫る規模。石と土を盛り重ねて階段状に積み上げた特異な構造は、高句麗の古墳との類似性が指摘されている。多くの渡来人を配下に置き、天皇の外戚となって台頭した蘇我稲目(そがのいなめ)ら蘇我一族の有力者の墓とみられる。【明日香村教育委員会・関西大学発表】
2014年
9月
西本願寺と新選組のやり取りを記した文書 本願寺史料研究所
(京都府京都市)
江戸 新選組が西本願寺に駐屯した際のやり取りが記録された、寺務方らの「諸日記」など3種類に14本の記事が見つかった。
新選組が西本願寺に駐屯していたのは1865年3月〜67年6月の約2年3カ月。幕府側の新選組に対して、親長州派の西本願寺が警戒していた様子が文書に残されている。また、寺との窓口役であった土方歳三(ひじかたとしぞう)が「狭くて暑い」と駐屯地の変更を願い出るなど、その交渉ぶりもうかがえる。【本願寺史料研究所発表】
2014年
12月
信長・秀吉など「天下人」らの書状 民家
(兵庫県神戸市)
安土・桃山 織田信長の黒印状、豊臣秀吉の朱印状、秀吉のおい・豊臣秀次の朱印状2通の計4通が神戸市の民家から見つかった。戦国武将の書状が民家からまとまって見つかるのは異例。
いずれも、三田(さんだ)藩(現在の兵庫県三田市)などを治めた九鬼(くき)氏の一族ら宛てで、贈り物のお礼や朝鮮出兵の激励といった内容。由緒書きから、三田藩家老の九鬼図書(ずしょ)家に伝わったものとみられる。【神戸大学発表】
2013年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2013年
1月
縄文時代の人骨11体 市谷加賀町二丁目遺跡
(東京都新宿区)
縄文 新宿区の市谷加賀町の住宅街で、縄文式土器や竪穴住居跡とともに縄文時代の人骨11体が発見された。
約4000年前の縄文時代中期〜後期の骨で、3体は男性、8体は女性と確認された。新宿区によると、酸性の土壌で骨が腐食しやすい武蔵野台地で縄文時代の人骨が見つかるのは極めて珍しいという。歯の磨耗から、動物の皮をなめすために歯を使っていた可能性があるなど、当時の生活の様子も伺える。今後DNA型鑑定を実施し、人骨の血縁関係などを調査する。【東京都新宿区発表】
2013年
2月
前方後円墳の周濠から橋の跡 ニサンザイ古墳
(大阪府堺市)
古墳 百舌(もず)古墳群のひとつ、5世紀前半の前方後円墳の後円部斜面から周濠(堀)の堤にかけて多数の柱穴が見つかった。木製の橋の跡とみられ、過去に類例のない発見。
見つかった柱穴は南北方向に3列、東西方向に7列に整然と並び、柱と考えられるクヌギ材も一部が見つかった。橋は、後円部と対岸の堤をまっすぐ結び、約40メートルと推定される。柱穴には埋め戻された跡があり、古墳の造成中か完成直後に架けられ、短期間で撤去されたとみられる。専門家からは、儀式用か、土や石棺を運ぶための運搬用との考えが出されている。古墳の周濠から橋の跡が見つかった例はなく、『古事記』や『日本書紀』にも記述のない、画期的な発見とされる。【大阪府堺市発表】
2013年
3月
伊達政宗の起請文 (茨城県ひたちなか市) 安土・桃山 東日本大震災で損壊した茨城県ひたちなか市の土蔵から、戦国大名伊達政宗の起請文(誓約書)が見つかった。対立する佐竹(さたけ)氏につく常陸の武士に対し、裏切りを促した密書とみられる。
起請文は1589年に常陸の大名佐竹義宣(よしのぶ)の配下、小野崎昭通(おのさきあきみち)に宛てられ、近隣の江戸氏に勝てば、その領地の一部を与えると約束するとともに、佐竹氏からの離反を条件とする記述もみられる。関東方面に送られた政宗の起請文の発見は初めて。
土蔵の所有者が「政宗」と読めるこの起請文を発見し、被災した文化財が建物ごと処分されないよう活動するボランティア団体「茨城史料ネット」に連絡したことにより内容が確認された。【読売新聞による】
2013年
4月
古墳時代の馬具一式 谷山北地区遺跡群
(福岡県古賀市)
古墳 古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初頭)の馬具一式が、船原(ふなばる)古墳に隣接する土坑から見つかった。馬具がまとまって発見されることは珍しく、馬具専用の埋納坑は全国的に類例がない。馬の背に乗せる「鞍」、ひもをつなげる「辻金具(つじかなぐ)」や「引手(ひって)」など金銅製品14点を含む18点が確認された。特に金銅製の「引手」は、これまでに国内では藤ノ木古墳出土品など4例しか見つかっておらず、大変貴重な発見である。【福岡県古賀市教育委員会発表】
2013年
5月
国内最古の木製仮面 大福遺跡
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 弥生時代末期〜古墳時代初頭(2世紀後半ごろ)の木製仮面の一部が見つかった。同市内の纏向(まきむく)遺跡では同種の仮面が完全な形で出土しているが、今回の出土品はそれを数十年さかのぼるとみられる。全長23センチメートル、最大幅7センチメートル、厚さ5ミリメートルで、仮面の約半分に当たる。【奈良県桜井市教育委員会発表】
2013年
6月
多数の弓・農具 谷山北地区遺跡群
(福岡県古賀市)
古墳 同年4月に馬具一式が発見された谷山北地区遺跡群の同埋納坑で、今度は多数の弓や農具が出土した。弓は漆塗りで長さ2.2〜2.3メートルで、敷きつめられたように並んでおり、少なくとも6点が見つかった。古墳時代の弓がまとまって出土した例としては国内最多とみられる。そのほかに、弓弭(ゆはず)(弦を引っかけるための部品)、弓の飾り金具、鏃(やじり)、農具では鉄製の鋤(すき)や鎌も見つかった。【福岡県古賀市教育委員会発表】
2013年
8月
双環柄頭短剣の鋳型 上御殿遺跡
(滋賀県高島市)
弥生〜古墳 弥生時代中期〜古墳時代前期(前4世紀〜3世紀)とみられる、双環柄頭(そうかんつかがしら)の短剣の鋳型(いがた)が見つかった。国内での発見は初めて。
鋳型はシルト岩製で、2枚重なって出土。いずれも長さ約30センチメートル、幅約9センチメートル、厚さ約4センチメートル。柄と剣身を一度に鋳造(ちゅうぞう)するタイプだが、実際に鋳造した痕跡はなく短剣も出土していない。
柄の先に直径2.3センチメートルの輪が2つ付き、剣身は直線状で、中国の春秋・戦国時代(紀元前8〜前3世紀)に北方騎馬民族が使った「オルドス式短剣」に酷似している。
研究者によると、中国北方の短剣をベースに国内で作られた可能性が考えられるが、技術がどのように伝わったかは不明。朝鮮半島での出土例がないため、伝達ルートについては、東アジア規模で注目する必要がある。【滋賀県文化財保護協会発表】
2013年
8月
宮内省での機密文書焼却指示 宮内庁宮内公文書館
(東京都千代田区)
昭和 敗戦直後、当時の宮内省が機密書類の焼却を省内に指示した文書が宮内庁の宮内公文書館に残っていた。軍部が戦争犯罪の追及を恐れて機密書類を焼いたことは知られているが、当時の政府機関の中枢が焼却を指示した公文書が見つかるのは珍しい。
1945年8月18日付の「機密書類ノ焼却ノ件」と題する文書で、宮内省の大臣官房から省内の各部局長宛に出され、「機密ニ属シ破棄相当ト認ムベキモノ」を「原簿ト共ニ之ノ際全部焼却スルコト」とし、8月18〜22日に「宮城(きゅうじょう)内 三重櫓(富士見櫓)下」で焼くように指定している。これは、昭和天皇の侍従長を務めた徳川義寛の『徳川義寛終戦日記』における8月21日の文書焼却の記述と符合する。
敗戦時の機密文書焼却については、陸軍省が8月14日に全部隊に指示したことを認めた書類が東京裁判に提出されたほか、海軍の暗号を解読した米軍資料、内務省や外務省OBの証言記録などから明らかになっている。【朝日新聞による】
2013年
9月
生麦事件犠牲者の生前の写真 アメリカ 幕末 幕末の1862年の生麦事件で薩摩藩士に殺害された英国人商人チャールズ・リチャードソンの立ち姿の写真が見つかった。これまでは事件直後の遺体の写真しか確認されておらず、生前の写真の発見は初めて。
写真は、幕末に日本に滞在した英国人ジェームズ・キャンベル・フレイザーの子孫で、アメリカ在住の男性が所有する写真帳から見つかった。6月に、フレイザーが日本で加入していた会員制スポーツクラブが、設立150年の行事のためにこの写真帳を借り受けて発見。横浜開港資料館に連絡し、リチャードソンと確認された。
リチャードソンは上海でフレイザーと知り合い、名刺代わりに写真を交換したと考えられる。写真の余白にはリチャードソンの名前のほか、フレイザーによるものと思われる生麦事件に関する記述が書き込まれている。【朝日新聞による】
2013年
10月
国内最古の「酔象(すいぞう)」駒 興福寺旧境内
(奈良県奈良市)
平安 平安時代の井戸跡から、木製の将棋駒4点(「酔象」、「桂馬」、「歩兵」、判読不明)が見つかった。同時に承徳2(1098)年の年号が記された木簡も出土し、駒は平安時代のものと特定された。
「酔象」駒は現在の将棋より駒数が多い「大将棋」や「中将棋」で使用され、鎌倉時代の文献『二中歴(にちゅうれき)』に記されている。これまでの最古例は14世紀中ごろで、今回の発見で約250年さかのぼることになった。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2013年
11月
沖縄最古の土器 サキタリ洞遺跡
(沖縄県南城市)
縄文 地表から約2.5メートルの深さの地層から出土した土器破片約20点が、約8000年前の沖縄最古のものであることがわかった。一緒に見つかったカタツムリの殻を放射性炭素年代測定で測ったところ、約8000年前の縄文時代早期ごろのものであると判明した。
土器は押引文(おしびきもん)とよばれる文様があしらわれている。これまで沖縄では約7000〜6000年前の無文土器や南島爪形文(なんとうつめがたもん)土器が最古とされていたが、今回の調査でこれらをさかのぼる発見となった。【沖縄県立博物館・美術館発表】
2013年
12月
鉄生産の地上炉跡 カラカミ遺跡
(長崎県壱岐市)
弥生 弥生時代の環濠集落跡であるカラカミ遺跡から、国内初の鉄生産用の地上炉跡が発見された。
炉跡は6基見つかり、床面に直接炉を築く地上式であった。床面に直径約80センチメートルの範囲で焼け土が確認された。
これまで国内で確認されている炉跡は地下式で、弥生時代の精錬炉跡は発見されていない。今回発見された炉跡は朝鮮半島の精錬炉跡に類似しているため、カラカミ遺跡では、鉄を精錬していた可能性も考えられる。【長崎県壱岐市教育委員会発表】
2012年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2012年
1月
最古のひらがなが書かれた土器 国史跡・斎宮(さいぐう)跡
(三重県明和町)
平安 ひらがなの「いろは歌」が書かれた平安時代の墨書土器が見つかった。11世紀末〜12世紀前半の土師器で、ひらがなが記された最古の確認例になる。土師器は4枚の破片で、つなぎ合わせると縦6.7センチメートル、横4.3センチメートル、高さ1センチメートル。表に「ぬるをわか」、裏に「つねなら」と書かれている。斎宮は天皇に代わって伊勢神宮に仕えた皇女「斎王」の宮殿があった場所で、地元の女官が文字を覚えるために書いた可能性が高い。都の文化が地方に広まっていった過程を示す重要な資料になる。【三重県立斎宮歴史博物館発表】
2012年
2月
正倉院宝物と同形金具のついた刀子(とうす) 十五郎穴横穴墓群
(茨城県ひたちなか市)
古墳〜平安 東日本最大級の集団墓から、正倉院の宝物と同じ形の「帯執(おびとり)金具」が付いた全長25センチメートルの鉄製の刀子が発見された。位の高い人物しか持てないもので、中央とつながりの深い人物が埋葬されていたと考えられる。帯執金具は刀をひもでつり下げるための道具で、刀子は木簡などを削るために使われた小刀。刀身の付いた完全な形での出土は全国初とされる。【ひたちなか市教育委員会発表】
2012年
3月
大坂冬の陣 布陣図 神田
(東京都千代田区)
江戸 1614年の大坂冬の陣の布陣を描いた絵図が見つかった。東京・神田の古書補修業者が古書を分解中、裏紙として使用されていたものを発見した。縦37センチメートル、横27センチメートルで、徳川秀忠を示す「将軍様」、徳川家康を示す「御所様」のほか、布陣する武将名と兵数、地名などが記されている。簡素な描写と、紙を縦に使用していることから「瓦版」のさきがけのような存在と考えられる。戦いの直後に描かれた可能性もある。【読売新聞による】
2012年
4月
奈良時代の「休暇願」 個人
(東京都)
奈良 戦後、所在不明となっていた正倉院文書が見つかった。東京都内の個人が秘蔵していた文書を奈良国立博物館が調査し、実物と判明した。見つかったのは写経を担当する下級役人が書いた「休暇願」で、重病にかかった姑の看病のため、4日間の休暇を願い出た内容が墨書されている。また、その裏には写経所の食材の使用状況が記されており、休暇願の裏面を帳簿として再利用したものと考えられる。【奈良国立博物館発表】
2012年
6月
最古の「戸籍」を記した木簡 国分松本遺跡
(福岡県太宰府市)
飛鳥 7世紀末の戸籍情報を記した木簡が出土した。現存最古の戸籍は、正倉院文書の702年のものであったが、それをさかのぼる資料となる。縦31センチメートル、横8センチメートルの木簡には、「嶋評(しまひょう)」「進大弐(しんだいに)」という文字や、16人の人名や身分・性別なども記されている。「評」は701年の大宝律令で「郡」に変更されるまで使用されていた行政単位、「進大弐」は685年に定められた冠位であることから、この戸籍は7世紀末に作成されたものと推定される。これまで、690年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成されたことは知られているが、実物は現存しておらず、今回、その存在を裏付けるものとして重要な発見となった。【福岡県太宰府市教育委員会発表】
2012年
6月
旧二条城の堀跡 京都府庁東側付近
(京都市上京区)
安土桃山 織田信長が15代将軍足利義昭のために築城した旧二条城の一部とみられる堀跡が見つかった。二重堀のうちの内堀の西側にあたるものとみられる。発掘された堀跡は、長さ8メートル、深さ2.2〜2.4メートル、幅4.5〜6.5メートル。宣教師ルイス=フロイスの著書『日本史』では、旧二条城について「二重の堀があった」と記述されている。これまでの調査で、二重堀の構造は判明していたが、今回の調査で、内堀の規模が、南北160メートル、東西200メートルになることが判明した。【古代文化調査会発表】
2012年
7月
小林一茶自筆の草稿 一茶記念館
(長野県信濃町)
江戸 江戸時代後期の俳人・小林一茶の自筆の草稿が見つかった。見つかった草稿は俳句選集『三韓人』の最後の2ページ分で、15人の俳句が選句されており、初版本では差し替えられた句もある。一茶による出版本の自筆草稿が発見されたのは初めて。『三韓人』は1814年に出版され、一茶と交流のあった全国の俳人242人の俳句が収録されている。全国を遍歴し多くの俳人と接した一茶の集大成といえる選集。【読売新聞による】
2012年
8月
平安宮楼閣(ろうかく)の瓦(かわら)片 平安宮跡
(京都市中京区)
平安 平安宮跡で、宮内にあった楼閣「白虎楼」のものとみられる平安時代中期の瓦片が多数出土した。軒先を飾った「軒平瓦」には唐草文様、「軒丸瓦」にはハスをかたどった文様が施されており、上質のものだった。近くでは緑色の光沢をした「緑釉(りょくゆう)瓦」も出土し、こちらは平安時代前期の大極殿に関連すると考えられている。白虎楼は大極殿の南西にあった二重屋根の建物で、景色を眺めたり外敵を見張ったりする施設と考えられる。平安時代に3度火災で焼失した。遺構は見つかっておらず、瓦片の出土は存在を裏付ける発見。なお京都市左京区の平安神宮には明治時代に復元された白虎楼(重要文化財)がある。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2012年
9月
新潟でヤマト政権に関連する副葬品 城の山(じょうのやま)古墳
(新潟県胎内市大塚)
古墳 4世紀前半の城の山古墳から、銅鏡や勾玉、大刀など近畿地方のヤマト政権の古墳と似た組合せの副葬品が発見された。ヤマト政権の影響が、従来よりも250キロメートル北の新潟県北部まで及んでいたことを示す発見となった。城の山古墳は、古墳時代前期のものとしては日本海側最北。今回出土したのは、直径約9センチメートルの銅鏡のほか、大刀や斧、弓、矢、ヒスイの勾玉、凝灰岩の管玉など。矢を入れる革製の箱「靫(ゆぎ)」に漆が塗られていたことが確認された。これらの副葬品は畿内の中枢から持ち込まれたとみられ、被葬者がヤマト政権と強いつながりを持ち、またヤマト政権が東北まで勢力を広げようとしていたことを示す貴重な発見。【新潟県胎内市教育委員会発表】
2012年
10月
1万2000年前の人骨と石器 サキタリ洞遺跡
(沖縄県南城市)
旧石器〜縄文 1万2000年前の人骨と石器が同じ地点で出土した。人骨と石器がそろって出土した例としては国内最古のもの。発見されたのは、子どもの歯と石英製の石器3点。3点は加工された形跡がみられたことから、石器と判断された。これらは約1.5×2.5メートル四方の範囲から見つかり、同地点からは、食用にしたとみられる貝の殻やイノシシの骨も見つかった。【沖縄県立博物館・美術館発表】
2012年
11月
7300年前の埋葬された犬の骨 上黒岩岩陰遺跡
(愛媛県久万高原町)
縄文 約50年前に発掘された犬2体の骨が、放射性炭素年代測定で、7300〜7200年前のものと判明した。犬の埋葬例としては国内最古のもの。
犬の骨は1962年に発掘されたものの、その後行方不明となり、2011年、慶応義塾大学の考古資料収蔵庫で見つかった。国内最古の犬の骨は、神奈川県横須賀市の夏島貝塚出土の1万年前のものだが、埋葬された痕跡はないという。【慶應義塾大学・久万高原町発表】
2012年
12月
甲(よろい)を着た人骨 金井東裏遺跡
(群馬県渋川市)
古墳 6世紀初頭の火山灰の層から、甲を身に着けた状態の成人男性の人骨が出土した。古墳時代の人骨が火山灰の層から見つかったことも、甲が身に着けられた状態で見つかったことも国内初で、大変貴重な発見である。この人骨は、榛名山の噴火被害により死亡した人物のものとみられ、両膝を曲げた状態で前のめりに倒れた姿勢で見つかった。【群馬県教育委員会・群馬県埋蔵文化財調査事業団発表】
2012年
12月
聚楽第の石垣 聚楽第跡
(京都市上京区)
安土桃山 聚楽第の本丸の石垣とみられる遺構が、長さ32メートル、高さ2.3メートル(3〜4段)にわたって見つかった。石垣は最下層部分とみられ、上部が破壊されているため、本来の高さは不明だという。
聚楽第は、豊臣秀吉が1587年に京都の公邸として造営した城郭。1591年、跡継ぎとなった甥の秀次に譲ったが、その後秀吉に嫡男・秀頼が生まれると、秀次は謀反の疑いをかけられ、切腹に追い込まれた。聚楽第は1595年に徹底的に破壊されたと伝えられていたため、これまで遺構は残っていないものと考えられていた。【京都府埋蔵文化財調査研究センター発表】
2011年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2011年
1月
本州初の「星雲文鏡」 青谷上寺地遺跡
(鳥取県鳥取市)
弥生 弥生集落跡から中国の前漢時代に作られた青銅鏡「星雲文鏡(せいうんもんきょう)」の破片が出土。九州では8例あるが本州では初。集落が大陸との交易拠点だったことを示す。【鳥取県埋蔵文化センター発表】
2011年
1月
国内最古の将棋盤 高浜I遺跡
(島根県出雲市)
室町 室町時代の武家の屋敷跡とされる島根県の高浜T遺跡から、将棋盤の一部と駒2つが出土。発見された将棋盤としては国内最古とされる。ごみ捨て場跡から漆器類とともに発見され、刃物傷が多数あったため、まな板か建材として再利用された可能性がある。【島根県埋蔵文化財調査センター発表】
2011年
2月
国内最古の人物埴輪 茅原大墓古墳
(奈良県桜井市)
古墳 4世紀末の前方後円墳、茅原大墓(ちはらおおはか)古墳で、国内最古とされる人物埴輪が見つかった。「盾持人(たてもちびと)埴輪」と呼ばれる、兵士をかたどった埴輪で、墳丘外縁部に立てて被葬者の魔よけにしたと考えられている。【桜井市教育委員会発表】
2011年
4月
聖武天皇の宴の庭 平城宮跡北
(奈良県奈良市)
奈良 聖武天皇が宴を催した「松林苑」の池や楼閣の跡が見つかった。苑池や建物の遺構が同時に発見されるのは初めて。石張りの護岸と複数の建物跡が、また、池の中からは宴で使用されたとみられる皿や甕などの土器も発見された。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2011年
5月
木製の柄付き石器 河原口坊中遺跡
(神奈川県海老名市)
弥生 ドーナツ状に穴を開けた楕円形の石器に木製の柄が付いたままで発見された。木は腐りやすく、石器に付いたままで出土することは大変珍しい。これまでこの形状の石器は、ハンマーとして使用したとする説と、魚網の錘(石錘)として使用したとする説とに見解が分かれていたが、今回の発見でハンマーとして使用されていた可能性が高まった。【かながわ考古学財団発表】
2011年
6月
日本最古の城郭墨書 小牧山城
(愛知県小牧市)
戦国 織田信長が1563年に築城した小牧山城の城郭から、「佐久間」と墨書された石材が見つかった。城郭の石に書かれた墨書としては日本最古となる。「佐久間」は、織田氏の重臣「佐久間信盛(のぶもり)」を指すとみられる。見つかったのは、本丸北西側の斜面で、ここが佐久間信盛の割り当て工区だったと考えられる。【小牧市教育委員会発表】
2011年
6月
複数の副室が存在? 桜井茶臼山古墳
(奈良県桜井市)
古墳 3世紀末〜4世紀初めの前方後円墳である桜井茶臼山古墳で、石室の東と北に「副室」と見られる遺構が見つかった。同時代の古墳から複数の副室が発見された例はなく、貴重な発見である。副室の内部は未発掘のため不明だが、副葬品や供物などを納めたと思われる。東側の副室は長さ8メートル、幅1.5メートル以上、北側の副室は長さ2メートル、幅1.5メートル以上の規模とみられる。崩壊した西側にも石材が散乱し、副室が存在した可能性があるという。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2011年
7月
最古のシャーマンの線画 三内丸山遺跡
(青森県青森市)
縄文 三内丸山遺跡で、縄文時代中期の土器片に踊るシャーマンの線画が描かれていることがわかった。祈り踊るシャーマンの最古の例とされる。土器片は1993年に遺跡中心部北側の「北盛土(もりど)」と呼ばれる遺構から出土した。縄文模様の上にしっかりとした線で、両手を広げ、両足を踏ん張る様子の人物が描かれ、手や頭部に祭具を表すような線が引かれている。【青森県文化財保護課発表】
2011年
8月
山アの戦い 明智光秀の堀 長岡京跡
(京都府長岡京市)
戦国 長岡京跡で、戦国時代の堀の跡が見つかった。近くには、1582年の山アの戦いで明智光秀が本陣を構えた場所とされる恵解山(いげのやま)古墳があり、光秀の軍が築いた堀だった可能性がある。堀は南北に49メートル分が確認され、幅や深さが不ぞろいで、戦に備えて急造されたとみられる。出土した16世紀の土器から戦国時代の遺構と判断された。山アの戦いは、本能寺の変後、光秀と秀吉が天王山のふもとで戦い、秀吉側が勝利した。【長岡京市埋蔵文化財センター発表】
2011年
9月
最古の暦が刻印された鉄製大刀 元岡古墳群
(福岡県福岡市)
古墳 7世紀中ごろの元岡古墳群から、570年とされる「庚寅(こういん)」と「正月六日」という日付が刻印された鉄製の大刀が見つかった。年と月日を組みあわせて表記した古墳出土の刀剣類の発見は初めて。当時暦が使用されていたことを示す国内最古の例とみられる。出土した大刀をX線で解析したところ、刀身の背に、彫った文字に金や銀を埋め込む象嵌(ぞうがん)という技法で年月日を含む19文字が記されていた。「庚寅の年の正月六日庚寅の日に、この刀を作った。12回練り鍛えた。」と読め、年と日付の干支から570年とされる。『日本書紀』には、554年に朝鮮半島から日本に暦がもたらされたとあり、今回の発見は『日本書紀』の記述を裏付けるものとなる。【福岡市教育委員会発表】
2011年
10月
聖武天皇の歯? 東大寺大仏殿
(奈良県奈良市)
奈良 明治時代の大仏殿修理の際、大仏の須弥壇の下から鎮壇具(ちんだんぐ)とともに人の歯が発掘された。鎮壇具とは地鎮のために埋納される品のことで、見つかった鎮壇具には聖武天皇の遺愛品が含まれていた。近年の調査によって、見つかった歯は熟年男性のものであることが判明し、50代半ばで亡くなった聖武天皇の歯である可能性がでてきた。歯は右下あごの第1臼歯で、長さ約2センチメートル、幅約1.2センチメートル。【奈良国立博物館発表】
2011年
10月
沈没した元寇船 伊万里湾鷹島沖海底
(長崎県松浦市)
鎌倉 鷹島沖水深20〜25メートルで、元寇の際に沈没したとみられる軍船が発見された。鷹島沖は弘安の役(1281年)の際、元軍の船が暴風雨によって沈没した海域として知られているが、船が原形をとどめた状態で見つかったのは初めて。船の背骨にあたるキールが、幅約50センチメートル、長さ約12メートルにわたって確認され、両側には船底の外板材が並び、釘で留めた跡も見つかった。船の全長は20メートルを超えるとみられる。【琉球大学池田栄史教授発表】
2011年
12月
平安貴族の邸宅跡 平安京右京三条一坊六町跡
(京都府京都市)
平安 平安時代前期の貴族の邸宅跡が発見された。発掘された墨書土器などから右大臣・藤原良相(よしみ)(813〜867年)の邸宅跡と断定された。特定の平安貴族の邸宅跡が発掘調査によって確認されたのは初めて。また、敷地からは庭池跡も見つかっており、その池の周囲からは「曲水の宴(きょくすいのえん・ごくすいのえん)」を開いたとみられるS字型の石敷きも発掘された。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2010年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2010年
1月
国内最多81面分の銅鏡片 桜井茶臼山古墳
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 ヤマト政権初期の大王墓の可能性がある大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳で国内最多の13種81面の銅鏡が副葬されていた。出土したうち、三角縁神獣鏡1枚の破片が、過去に群馬県で出土した、魏の年号「正始元年」(240年)の入った鏡と一致し、同じ鋳型で作られた鏡であることがわかった。正始元年は卑弥呼の使者が魏から帰国した年。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2010年
2月
約2万年前の旧石器人骨 白保竿根田原洞穴遺跡
(沖縄県石垣島)
旧石器 炭素年代測定によって、出土した人骨が約2万年前の旧石器人のものであることがわかった。放射性炭素を直接測定した人骨としては日本最古。【NPO法人沖縄鍾乳洞協会などの専門家によるチームの発表】
2010年
2月
よろいの一部の鉄板約30点 長岡京内裏跡
(京都府向日市)
古墳〜平安 桓武天皇の居所だった内裏跡から、古代の甲(よろい)の一部の鉄板約30点が見つかった。内裏跡から甲が見つかるのは初めて。皇位を象徴する御物として受け継がれていた可能性がある。【京都府向日市埋蔵文化財センター発表】
2010年
3月
山城の出現を200年早める 大鳥井山遺跡
(秋田県横手市)
平安 これまで武士が築く山城の出現は14世紀とされてきたが、11世紀後半に最盛期を迎えた大鳥井山遺跡は戦国の山城にも匹敵する規模であり、山城の出現を200年早める可能性が出てきた。【秋田県横手市教育委員会発表】
2010年
4月
信長のサウナ風呂? 二条屋敷跡
(京都府京都市)
安土・桃山 織田信長が京屋敷として使用した「二条屋敷」の跡から、桃山時代の風呂の遺構が発見された。絵巻物などによると、当時の風呂は蒸気で体を温めるサウナ式だった。信長が客を歓待したり、自ら楽しんだ可能性がある。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2010年
4月
渡来官僚の名を記した皿 西大寺境内
(奈良県奈良市)
奈良 奈良時代に遣唐使船で来日した中国人官僚、「皇甫東朝」の名前が記された皿状の須恵器の破片が出土。発掘資料で渡来中国人の存在が裏付けられたのは初めて。【奈良県奈良市埋蔵文化財調査センター、奈良県立橿原考古学研究所発表】
2010年
5月
家康の府中御殿跡 JR府中本町駅前発掘調査地
(東京都府中市)
安土・桃山〜江戸 徳川家康が鷹狩などに使った「府中御殿」の遺構が見つかった。御殿は家康が1590年に建設。歴代将軍が鷹狩に使ったり、奥州征伐を終えた豊臣秀吉を招いたりしたとされるが、1646年に焼失し、これまで場所は特定されていなかった。【東京都府中市発表】
2010年
5月
1万3000年前最古級土偶 相谷熊原遺跡
(滋賀県東近江市)
縄文 女性の特徴をもつ土偶をはじめ、縄文草創期の爪形文土器や矢柄研磨器(砥石)が出土。放射性炭素年代測定法により約1万3000年前のものと測定された。土偶は高さ3cmほど。胴体部分のみの造形で、完全な形で出土。乳房が強調されており、腹部や臀部を強調した縄文中期の妊婦型の土偶とは対照的。【滋賀県文化財保護協会発表】
2010年
6月
男女の人骨と性別ごとの副葬品 小竹貝塚
(富山県富山市)
縄文 6000〜5500年前の貝塚から縄文前期の人骨が13体発見(同年10月には新たに60体発見と発表)され、同じ墓坑に埋葬された2体の付近には、石皿と石斧(せきふ)があった。石皿は女性、石斧は男性の象徴として服装された例があり、男女の社会的な役割を示しているとされる。人骨と男女の道具を伴う埋葬例は縄文前期では初めて。【富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所発表】
2010年
7月
遣唐使・円仁が記された石板 法王寺
(中国河南省登封市)
平安 平安時代の僧で、遣唐使の円仁の名前の記された石板が中国で発見。中国に残された遣唐使の遺物を示す例としては井真成の墓誌に続き、2例目となる。【國學院大學栃木短期大学 酒寄雅志教授(東アジア古代史)発表】
2010年
7月
ベンガラ使用の絵画土器 一色青海遺跡
(愛知県稲沢市)
弥生 赤い顔料ベンガラでシカを描いた土器が発見された。ベンガラを使った弥生時代の絵画土器の発見は日本初。下水に含まれる鉄分を精製して顔料を作った可能性が高い。【愛知県埋蔵文化財センター発表】
2010年
8月
最古の現役木造建材 元興寺
(奈良県奈良市)
飛鳥 元興寺の禅室(国宝)に、飛鳥時代初期の586年ごろに伐採されたヒノキが使われていることがわかった。最も古い木造建築とされる法隆寺を約100年さかのぼる。元興寺は奈良県明日香村の飛鳥寺を前身とし、平城遷都に合わせ平城京内に移された。新築とされていたが、少なくとも禅室は移築の可能性が高まる。【総合地球環境学研究所発表】
2010年
8月
魔よけ?桃の種2000個 纒向遺跡
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 大型建物跡そばの穴から桃の種2000個超が出土。ほかにも竹ざるや木製の剣、割られた土器なども出土し、祭祀に関係するとされる。時代は3世紀中ごろとみられ、1か所でこれほどの桃の種が見つかるのは異例。古代中国の道教では、桃は不老不死や魔よけの呪力があると考えられていた。【奈良県桜井市教育委員会発表】
2010年
9月
横井小楠の書簡「国是十二条」 東京都
幕末 幕末の思想家、横井小楠が国のあり方の基本を書いた「国是十二条」の実物が発見。複数ある「国是」のうち「国是十二条」は福井藩に提出され、坂本龍馬の「船中八策」や、後の「五箇条の御誓文」に影響を与えたとされる。【大阪大学 猪飼隆明名誉教授(日本近代史)発表】
2010年
10月
最古級・最大級の「粘土槨」発見 長尾山古墳
(兵庫県宝塚市)
古墳 国内最古級・最大級の「粘土槨(ねんどかく)」が発見された。粘土槨は木棺を覆い、保護するための粘土の層で、古墳時代前期に成立した埋葬施設。竪穴式石室を簡易化したものである。同時代で建造当時の姿を保っているものとしては初めての発見である。【兵庫県宝塚市教育委員会・大阪大学考古学研究室発表】
2010年
11月
4世紀の大型建物群 秋津遺跡
(奈良県御所市)
古墳 大規模な区画跡、建物跡、集落跡が見つかった。秋津遺跡では、強固な板塀で囲まれていたとみられる区画跡が見つかっており、権力者の祭祀空間や館だったと考えられる。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2010年
12月
天智天皇の娘の墓発見、牽牛子塚古墳は斉明天皇陵か? 越塚御門古墳
牽牛子塚古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 牽牛子塚(けんごしづか)古墳の南東約20mで棺をおさめた石室が発見。越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。牽牛子塚古墳は斉明天皇陵とする説があり、それに従うと今回発見された石室に埋葬されたのは斉明天皇の孫で、天智天皇の娘にあたる大田皇女(おおたのひめみこ)の可能性がある。『日本書紀』には、667年斉明天皇とその娘を合葬し、孫の大田皇女を御陵の前に埋葬したと書かれている。牽牛子塚古墳では2人用の棺が納められる石室が見つかっており、位置関係からも越塚御門古墳が大田皇女の墓であり、牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であることが裏付けられたとされる。【奈良県明日香村教育委員会発表】
2009年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2009年
1月
最大規模の鉄器工房群 垣内遺跡
(兵庫県淡路市)
弥生 2〜3世紀の鉄器工房跡が見つかった。これまで近畿では大規模な鉄器工房跡は見つかっておらず、鉄の流通経路を新たに示す貴重な成果となる。【兵庫県淡路市教育委員会発表】
2009年
2月
興福寺波羅門立像墨書 興福寺
(奈良県奈良市)
安土・桃山 興福寺所蔵の木像、波羅門(ばらもん)立像の頭の内部に安土・桃山時代の1577(天正5)年制作を示す墨書があることがわかった。頭内部からの発見は珍しいという。【興福寺発表】
2009年
2月
とさかのある人面付土器 温江遺跡
(京都府与謝野町)
弥生 頭にとさかのようなものが表現された人面付土器が出土。司祭者が鳥の格好をしていたか?弥生時代の祭祀のあり方を復元する上で興味深い発見。【京都府埋蔵文化財調査研究センター発表】
2009年
3月
纒向遺跡巨大建物群 纒向遺跡
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 3世紀前半の建物跡が同じ方位を向き、同一直線上に並んで建てられていることがわかった。日本最初の都市、あるいは初期ヤマト政権最初の都宮とする見解も示されている。邪馬台国の候補地として注目されている。【奈良県桜井市教育委員会発表】
2009年
5月
弥生人のヘルメット 上原遺跡
(岡山県総社市)
弥生 ヘルメットのようにかぶって使われたと思われる、人頭をかたどった土製品が出土。かぶる形の土器は全国初。祭祀の際に呪術師がかぶったと考えられる。【岡山県総社市教育委員会】
2009年
6月
古墳石室上部に丸太跡 桜井茶臼山古墳
(奈良県桜井市)
古墳 被葬者を安置した石室の真上部分に約150本の丸太の跡が見つかった。石室の神聖さを守る「結界」の役割や、死者を弔う祭礼の館の可能性がある。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2009年
7月
国内最古のイスラム陶器 平城京跡西大寺旧境内
(奈良県奈良市)
奈良 8世紀後半のイスラム陶器の破片19点が出土した。これまでの国内発見例を約1世紀さかのぼる。香料などの容器として、海上交易に使われたとみられ、「海のシルクロード」が奈良時代から利用されていたことを示す貴重な資料。【奈良県奈良市埋蔵文化財調査センター発表】
2009年
7月
山本勘助の実在を示す書状 群馬県安中市旧家
戦国 武田信玄の花押が記された書状が2通発見され、あて名は「山本菅介」「山本菅助」となっていた。「山本かんすけ」なる人物が大きな武功を立てて褒賞を受けたことや、信玄の側近的な地位にいたことをうかがわせる内容。【山梨県立博物館発表】
2009年
7月
『蜻蛉日記』最古の断簡 東京都
鎌倉 現存最古として知られていた鎌倉時代の『蜻蛉日記』の断簡の3葉目が見つかった。すでに知られる2葉は「玉津切」と名付けられ、国宝の手鑑(てかがみ)に入っている。【中央大学 池田和臣教授(平安文学)発表】
2009年
8月
最古の住居跡 小保戸遺跡
(神奈川県相模原市)
旧石器 百数十基の礫からなる礫群3基が出土。礫群は直径2.5〜3.5mの円形で、旧石器時代人が短期間住んだ跡の「住居状遺構」である可能性が高く、この種では最古。【かながわ考古学財団発表】
2009年
9月
アイヌ交易最古の帳簿 ロシア科学アカデミー東洋戸籍文献研究所
(ロシア サンクトペテルブルク)
江戸 アイヌ民族と日本人商人とのサハリンでの交易を示す帳簿がロシアで発見された。サハリン南部のクシュンコタン(現在のコルサコフ)の番屋(日本人の経営拠点)における、1804(文化元)年から3年分の記録で、現在日ロ共同で研究が進められている。当時、アイヌ側へは酒、たばこ、米、鉄器、布地など48品目が、日本へはニシン、サケ、イリコ、魚油など水産物を中心に15品目がもたらされていたことがわかった。【北海道大学 谷本晃久准教授発表】
2009年
9月
国内最古の石器? 砂原遺跡
(島根県出雲市)
旧石器 12〜7万年前の地層から旧石器20点が出土した。約12万年前のものであれば国内最古とされる金取遺跡(岩手県遠野市)の約9万年の記録を3万年さかのぼることになる。【同志社大学 松藤和人教授を団長とする調査団発表】
2009年
10月
大王墓級 葺石 津堂城山古墳
(大阪府藤井寺市)
古墳 大王墓級の前方後円墳で、こぶし大の石を敷き詰めた「葺石(ふきいし)」が良好な状態で確認された。墳丘本体の発掘は約100年ぶり。初期の大王墓の構造の解明につながるとみられる。【大阪府藤井寺市教育委員会発表】
2009年
10月
全面に朱が塗られた大型の竪穴式石室 桜井茶臼山古墳
(奈良県桜井市)
古墳 全面に朱が塗られた大型の竪穴式石室と、木棺が確認された。石室、木棺ともに古墳時代前期としては最大級。使われた顔料は水銀朱で200s使われたとみられ、過去最大量の出土。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2009年
11月
3世紀最大の建物跡 纒向遺跡
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 大型建物跡1棟が見つかる。同時期の建物としては国内最大の面積で、邪馬台国の中枢施設の可能性がある。【奈良県桜井市教育委員会発表】
2008年※所在地名は発表当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2008年
1月
平城宮での地鎮祭の銅銭 平城宮跡東院地区
(奈良県奈良市)
奈良 地鎮具とみられる銅銭や灯明の皿が見つかった。平城宮での地鎮具の発見は初めて。ひもを通した銅銭110枚以上の束の上に、灯明皿(直径19p)が2枚見つかった。工事の無事を祈る地鎮祭で使われたものと考えられている。【奈良文化財研究所発表】
2008年
2月
「石舞台」を超えるドーム石室 真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳
(奈良県明日香村)
古墳 横穴式石室の大きさが、「石舞台古墳」をしのぎ、国内最大級規模であるとわかった。石室は奥行き6.5m、幅4.4m、高さ4.7mで、約400個の石をドーム状に積み上げてある。被葬者は渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)や蘇我稲目ではないかとみられる。【奈良県明日香村教育委員会発表】
2008年
2月
黒曜石の発掘坑 高原山黒曜石原産地遺跡群
(栃木県矢板市)
旧石器 黒曜石を探すために掘った深さ1.2mの採掘坑が見つかった。これまで、拾った石など目で見える範囲の石を利用していたと考えられていたが、石器に使う材料を探すための採掘坑跡が見つかったのは初めて。【栃木県矢板市教育委員会発表】
2008年
3月
富本銭に別種 藤原宮跡
(奈良県橿原市)
飛鳥 従来とは書体や厚みの異なるタイプの富本銭が見つかった。地鎮具として使われた須恵器の中に収められており、「富」の部首が「ワ冠」で、ワ冠と口の間の「一」がなかった。鋳造工房であった飛鳥池遺跡出土の富本銭とは別時期、別工房で作られた可能性があるという。【奈良文化財研究所発表】
2008年
4月
「物忌」知らせる札 観音寺遺跡
(徳島県徳島市)
平安 同遺跡付近は阿波国府があったとされる場所。「今日全物忌」(今日は完全に物忌みです)と書かれた札が見つかった。国府にて「物忌札」が発見されたのは初めて。都で盛んだった物忌が、地方でも行われていたことを示す資料として貴重である。【徳島県埋蔵文化財センター発表】
2008年
4月
草仮名が書かれた皿 赤田T遺跡
(富山県射水市)
平安 平仮名の前段階の草仮名が書かれた土器が発見された。皿の裏には「ささつき」「なには」「のみ」などと読める草仮名が書かれている。古代の地方における万葉仮名から草仮名への移行を示す資料として貴重であり、草仮名が書かれた土器としては国内最古とみられる。【富山県射水市教育委員会発表】
2008年
5月
万葉歌が書かれた木簡 宮町遺跡
(滋賀県甲賀市)
奈良 同遺跡は紫香楽宮があった場所。木簡には、『万葉集』16巻に収められた歌の一部が万葉仮名で記されていた。この木簡は8世紀中ごろで、『万葉集』の成立年より前のものとみられる。『万葉集』成立前から、この歌が宮中で広く流布していたことを示す資料である。【滋賀県甲賀市教育委員会発表】
2008年
6月
徳川将軍家「大奥」の副葬品 徳川家墓所
(東京都台東区)
江戸 副葬品として、化粧道具や文房具など1,000点近くが、また現存では最大の墓誌(縦横2.9m)が発見された。化粧道具や文房具以外には、仏具、着物、眼鏡、銀製で金の装飾を施した印籠など、豪華な副葬品が出土した。【寛永寺谷中徳川家近世墓所調査団発表】
2008年
6月
藤原宮跡に旗の支柱跡 藤原宮跡
(奈良県橿原市)
飛鳥 大極殿院南門跡の南側から石を敷き詰めた広場が発見された。そこに、天皇の儀式の際に並べられた旗「幢幡(どうばん)」を立てたとみられる支柱跡が8か所見つかった。『続日本紀』には、大宝元(701)年の正月参賀の際、「幢幡」を7本立てたという記述があり、関係性が指摘されている。【奈良文化財研究所発表】
2008年
8月
東海以東最古級の人物埴輪 西大久手古墳
(愛知県名古屋市)
古墳 5世紀中ごろの人物埴輪が出土した。同時期の人物埴輪は、近畿地方の天皇陵で数例があるだけで、東海地方以東で出土するのは初めて。出土したのは顔部分で、整った表情などから巫女の埴輪ではないかとみられる。【愛知県名古屋市教育委員会発表】
2008年
9月
藤原宮の運河跡 藤原宮跡
(奈良県橿原市)
飛鳥 造営の資材運搬用の運河跡が、総延長500mにおよぶものだったことがわかった。今回見つかった運河跡は、朝堂院の中央広場内にあり、これまで見つかった運河跡3か所とも、すべて南北の同一線上にあることから、大規模な運河であることが判明した。【奈良文化財研究所発表】
2008年
10月
最古の万葉歌木簡 石神遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 同年5月に発表された紫香楽宮での万葉歌木簡(上記参照)より約60年さかのぼる7世紀後半の最古の万葉歌木簡が見つかった。『万葉集』7巻に収録されていた歌と冒頭部分がほぼ一致している。飛鳥時代に万葉歌が詠まれていたことを示す貴重な資料。【筑波大学 森岡隆准教授の調査】
2008年
10月
新薬師寺の巨大金堂跡@ 奈良教育大学構内
(奈良県奈良市)
奈良 建物の基盤の大きさは、推定東西54m、南北27mで、現存する東大寺大仏殿に匹敵する大きさ。現在の新薬師寺の西150mの場所で見つかった。新薬師寺は、本堂のみが現存し、創建時の伽藍のほとんどが不明であった。創建当時の様子を示す貴重な発見。【奈良教育大学発表】
2008年
11月
百済で作られたの青銅菩薩立像 鞠智城(きくちじょう)遺跡
(熊本県菊池市)
飛鳥 顔立ちの特徴から、7世紀後半に百済で作られたものであることわかった。百済の青銅仏像の国内での発見はこれが初めて。鞠智城は、663年の白村江の戦いに敗れたあとに築城されたとされ、築城の際、百済からの渡来人によってもたらされたものではないかと考えられている。【熊本県教育委員会発表】
2008年
11月
新薬師寺の巨大金堂跡A 奈良教育大学構内
(奈良県奈良市)
奈良 同年10月の発表(上記参照)ののち、基盤の大きさが従来よりも14m長い、推定東西68mであることがわかった。また、仏像の一部とみられる遺物も見つかり、962年に金堂が倒壊した際に下敷きになったものと考えられている。【奈良教育大学発表】
2007年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2007年
1月
最古の落とし穴跡 大津保畑遺跡
(鹿児島県中種子町)
旧石器 約3万年前の国内最古の落とし穴跡12基が発見された。 落とし穴は、動物を捕獲するために作られたものであり、昔の人々はイノシシやシカの通り道に落とし穴を作って、狩りをしていたと考えられている。 【鹿児島県立埋蔵文化財センター発表】
2007年
2月
最古級の筆書き赤漆文様 今宿五郎江遺跡
(福岡県福岡市)
弥生 装飾された木製短甲、木製飾板や漆器が出土した。 類例も少なくきわめて貴重な遺物である。 木製短甲には蕨の先端状の文様が刻まれ、漆器は黒漆の上に赤漆で筆書き極細の線で文様が描かれている。 【福岡市埋蔵文化財センター発表】
2007年
3月
横穴式石室の基盤の石組み遺構 今城塚古墳
(大阪府高槻市)
古墳 継体天皇の墓とされる今城塚古墳で、横穴式石室の基礎となるコの字形の大規模な石組み遺構が出土した。 天皇陵級の古墳で横穴式石室の基礎部分が確認されたのは初めて。 【大阪府高槻市教育委員会発表】
2007年
3月
最古級の「石囲い木槨墓」 萩原2号墓
(徳島県鳴門市)
弥生 国内最古の石積み墳丘墓。 石積みの内側に木材を立てた墓室「石囲い木槨」の痕跡も全国2例目として確認された。 木槨は棺を保護する木の部屋で、中国や朝鮮に起源を持つ。 【徳島県教育委員会発表】
2007年
3月
仮面のような木製品 東名遺跡
(佐賀県佐賀市)
縄文 人の顔を思わせる木製品が見つかった。 人の顔をあしらった木の彫刻品であればこの時代に類例がない。 また眉や鼻など特徴部分を強調する原始美術に似ていて、宗教的な儀式の際に使われたのだろうと分析されている。 【佐賀県佐賀市教育委員会発表】
2007年
4月
約3万5千年前の石器 高原山の黒曜石産地跡
(栃木県矢板市)
旧石器 原石を求めて山に登り、効率よく石器に加工していた可能性が高い。 拾った石を加工していたというイメージを一変させ、旧石器時代の人々の知的レベルの高さを示す画期的な発見。 【栃木県矢板市教育委員会発表】
2007年
6月
平城京の十条大路 下三橋遺跡
(奈良県大和郡山市)
奈良 平城京の最南端に当たる「十条大路」の遺構が初めて確認され、平城京は「南北九条」という従来の定説を覆し、その前の藤原京と同様、「十条」で計画されたことが明らかになった。 【奈良県大和郡山市教育委員会発表】
2007年
8月
約4千年前の丸木舟5艘 ユリ遺跡
(福井県若狭町)
縄文 ユリ遺跡は、三方湖の周辺にある遺跡で、縄文時代後期の層から丸木舟が5艘まとまって発見された。 同遺跡の丸木舟は計9艘となった。 これだけの多くの発見例は日本海側では例がない。 【福井県埋蔵文化財調査センター発表】
2007年
9月
一部が金銅製の馬具3組 中村1号墳
(島根県出雲市)
古墳 馬具3組のうち2組は金メッキで装飾されていて、儀式に用いたもので、もう1組は金メッキはなく実用的に使用したもの。 一つの石室から3組の馬具が出土した例は中四国地方で初めて。 【島根県出雲市文化財課発表】
2007年
9月
「太閤堤」の護岸跡 乙方遺跡
(京都府宇治市)
安土桃山 豊臣秀吉が伏見城を築城した際に宇治川に築いた総延長12キロの大堤防「太閤堤」の一部とみられる石積みの護岸跡が見つかった。 太閤堤が広範囲に出土したのは初めて。 【京都府宇治市歴史資料館発表】
2007年
9月
呪術用?最古の木製仮面 纏向遺跡
(奈良県桜井市)
弥生〜古墳 国内最古の木製仮面が出土した。 これまでの例を400年さかのぼる。 盾などを手に面をつけて踊る呪術師の姿を彷彿とさせ、古代祭祀の具体像を知る一級資料で、農耕儀礼や鬼追いのルーツとの見方も出ている。 【奈良県桜井市教育委員会発表】
2007年
9月
最古の売券木簡 延命寺遺跡
(新潟県上越市)
奈良 田畑の賃貸借を公認する国内最古の売券木簡が見つかった。 木簡は深さ約1.5メートルの地層から発見され、天平7(735)年の記載があり、国内最古の木簡とわかった。 【新潟県埋蔵文化財調査事業団発表】
2007年
10月
東日本初、ほぼ完全型の銅戈 柳沢遺跡
(長野県中野市)
弥生 銅戈の出土例は、九州北部を中心に近畿にかけて110例あるが東日本では完全な形での出土は初めて。 弥生時代に信州を中心とする文化圏があったとも考えられる貴重な発見。 【長野県埋蔵文化財センター発表】
2007年
11月
末盧国王墓再確認 桜馬場遺跡
(佐賀県唐津市)
弥生 同遺跡は1944年住民が発見したが、調査後の埋め戻しで所在が不明になっていた。 今回の調査で、最高権力者の大刀など豪華な副葬品が数多く見つかり、弥生時代のクニ「末盧国」の王墓と裏付けられた。 【佐賀県唐津市教育委員会発表】
2007年
12月
銅鐸リサイクルの工房跡 脇本遺跡
(奈良県桜井市)
古墳 銅鐸の破片や、銅鐸とは違う鋳型などがまとまって出土した。 弥生時代の祭祀に使われた銅鐸を、古墳時代になって壊し、別の青銅器製品に仕立てたリサイクル工房とみられる。 こうした工房跡は全国でも例がない。 【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2006年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2006年
1月
聖徳太子弟、来目皇子の墓 塚穴古墳
(大阪府羽曳野市)
飛鳥 大規模な外堤が出土した。 外堤に囲まれた墓域は100メートル四方と推定され、奈良県明日香村の石舞台古墳と同規模。 トップクラスの人物の墓だったことが裏付けられ、来目皇子の墓である可能性が強まった。 【大阪府羽曳野市教育委員会発表】
2006年
2月
古代の「霊柩船」 巣山古墳
(奈良県広陵町)
古墳 表面に文様が刻まれ、朱が塗られた前例のない形状の木製品が出土した。 船の形に復元できることから、古墳まで遺体を運んだ「霊柩船」の一部と専門家は見ている。 古代の葬送儀礼を解明する上できわめて重要な発見。 【奈良県広陵町教育委員会発表】
2006年
3月
天武・持統天皇の居所跡 飛鳥京跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 飛鳥浄御原宮の「内安殿」とみられる大型建物跡が出土した。 この発掘で天武・持統天皇の居所だった内裏中枢部の全容が判明した。 これで日本書紀が伝える浄御原宮の主な建物跡が全て確認された。 【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2006年
3月
「観世音経」と記された木簡 石神遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 679(天武8)年を示す年号が書かれており、観世音経(観音経)の存在を示す最古の資料。 天武天皇の病気平癒のため、同経を読ませたという日本書紀の記述から伺える当時の観音経の流行を裏付けるもので、日本の仏教史上重要な発見。 【奈良文化財研究所発表】
2006年
3月
役人の身元照会書木簡 観音寺遺跡
(徳島県徳島市)
奈良 朝廷が官人登用に際して国府との間で行った身元照会の手続き「勘籍」が記された8世紀の木簡が初めて出土した。 朝廷への下書きとみられ、律令国家による地方支配の詳細を解明する上で、貴重な史料。 【徳島県埋蔵文化財センター発表】
2006年
6月
創建法隆寺彩る壁画片 創建法隆寺
(奈良県斑鳩町)
飛鳥 2004年12月国内最古の彩色壁画片が見つかった斑鳩町の法隆寺で、同じ絵の一部とみられる断片約80点が新たに出土した。 樹木らしい図柄が初めて見つかるなど、仏教絵画とみられる壁画の全体像を知る手がかりが得られた。 【奈良県斑鳩町教育委員会発表】
2006年
7月
最古級壁画確認 安倍寺跡
(奈良県桜井市)
飛鳥 11年前に出土した壁土が国内最古級の彩色壁画だったことがわかった。 絵柄は不明だが、赤系顔料のベンガラの跡などがあり、創建法隆寺についで古いとみられる。 壁画片は5点でいずれも高温で焼けて変色していた。 【奈良県桜井市立埋蔵文化財センター発表】
2006年
8月
最古級の鞍 蔀屋北遺跡
(大阪府四條畷市)
古墳 黒漆が塗られた最古級の木製鞍(5世紀中頃)が出土した。 蔀屋北遺跡では、これまで鐙と轡が見つかっており、古墳時代の集落遺跡から実用品の主要な馬具が3点セットで出土されるのは初めて。 当時の馬文化の実態が鮮明に。 【大阪府教育委員会発表】
2006年
9月
縄文時代の石器「石冠」 近野遺跡
(青森県青森市)
縄文 人物を表現したとみられる線刻が描かれている石冠が出土した。 人物画のある縄文時代の遺物は珍しく、特に石棺から複数の人物画が見つかるのは国内初。 縄文人の人物表現を知る上で、今後の基準史料となる重要な発見。 【青森県埋蔵文化財調査センター発表】
2006年
10月
「吉祥天女」など板絵 山持遺跡
(島根県出雲市)
奈良〜平安 墨で描かれた唐風の衣装を着た女性や「吉祥天女」とみられる古代の板絵4点が見つかった。 平安初期以前の女性全身像の出土は、高松塚古墳壁画以外に例が少なく、仏教の地方への浸透ぶりや当時の風俗を知る貴重な発見。 【島根県埋蔵文化財調査センター】
2006年
11月
飛鳥寺講堂支えた礎石 飛鳥寺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 講堂の土台となる礎石が50年ぶりに四つ出土した。 長径1.2〜1.6メートルで上に据えた柱の太さは60センチ程度とみられ、講堂の規模が判明した。 古代飛鳥の寺院では最大級の礎石。 造営したと伝えられる蘇我氏の権勢が改めて裏付けられた。 【奈良文化財研究所発表】
2006年
11月
最古級の絵馬 日笠フシンダ遺跡
(奈良県奈良市)
奈良 天平10(738)年の木簡とともに大型の絵馬が見つかった。 年代のわかっている古代の絵馬としては最大、最古級。 当時、都を襲った干ばつや疫病を封じる祭祀に関連するとみられる。 当時の信仰や精神を知る成果として注目される。 【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2006年
11月
寺が僧に禁制の酒 西大寺食堂院跡
(奈良県奈良市)
平安 寺での米や酒、野菜の出し入れなどを記した平安時代の木簡が出土した。 禁制だったはずの酒をたしなむなど、当時の僧侶の食生活が伺える。 また、中には栗拾いに行った使いにご飯1升を支給した内容や、カブラを漬けた者にご飯1斗1升を支給した記録もある。 【奈良文化財研究所発表】
2006年
12月
表の顔、裏の顔「二面相埴輪」 岩橋千塚古墳群
(大日山35号墳)
(和歌山県和歌山市)
古墳 前後両面に顔のある人物埴輪の頭部が出土した。 二つの顔を持つ人物の埴輪は全国で初めて。 古墳を守る呪術集団などを表すのではないかと見る専門家もおり、古代の人々の死生観や祭事を推定する史料となりそう。 【和歌山県教育委員会発表】
2005年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2005年
1月
貝の腕輪を模した土製品 朝日遺跡
(愛知県清須市)
弥生 貝の腕輪「貝輪」をかたどった土製品の破片が出土した。実用品ではなく、儀式の道具ではないかとみられている。出土は全国で2例目。愛知県埋蔵文化財センター発表】
2005年
2月
エキゾチックな顔立ちのレリーフ 二光寺廃寺
(奈良県御所市)
飛鳥 7世紀末白鳳期の寺院の金堂とみられる建物跡から、粘土を焼いた仏像の土製レリーフが出土した。異国風の顔立ちの群像もあり、白鳳期の国際色豊かな美術を象徴する発見として注目される。【橿原考古学研究所発表】
2005年
3月
陶器の枕を飾る獅子の頭 平安京跡
(京都府京都市)
平安 陶器の枕の飾りとみられる獅子の頭がみつかり、中国・唐代に製造され遣唐使が持ち帰ったと考えられる。獅子形枕の国内での出土は初めて。【古代学協会・古代学研究所発表】
2005年
3月
埋葬者は50代男性? キトラ古墳
(奈良県明日香村)
古墳 キトラ古墳の石室で出土した人骨や歯を鑑定した結果、被葬者は50歳代の男性の可能性が高くなった。年齢や性別が絞り込まれたのは初めてで、被葬者の特定に結びつく手がかりとして注目される。【文化庁発表】
2005年
5月
西日本最大級の貝塚 東名遺跡
(佐賀県佐賀市)
縄文 貝塚が発見された東名遺跡は、縄文時代は河口付近だったとみられる。貝塚からは貝類、魚の骨に混じって木編みのカゴもみつかっている。縄文時代早期の貝塚としては、西日本最大級。【佐賀市教育委員会調査】
2005年
5月
国内最古のガラス玉 井原鑓溝遺跡
(福岡県前原市)
弥生 中国の史書「魏志倭人伝」に登場する伊都国があったとされる福岡県で、国内最古の鉛ガラスが発見された。ドーナッツ状の玉が連なった形で、国産か渡来品かは不明。【福岡市埋蔵文化財センター発表】
2005年
7月
キトラ古墳「午」全容判明 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
古墳 壁画は石室南壁のしっくいから、表側を覆っていた薄い粘土層に転写されていた。写実的に描かれた馬の顔立ちや、衣服の鮮やかな赤がみえる。【文化庁発表】
2005年
7月
埴輪と同じ建物が存在? 極楽寺ヒビキ遺跡
(奈良県御所市)
古墳 2月に確認されていた大型建物跡に、長方形の板状の柱が使われていたことが判明した。御所市の宮山古墳出土の家形埴輪と柱の形が一致しており、埴輪が実際の建物を再現した可能性が高いとみられている。【橿原考古学研究所発表】
2005年
8月
安土城門外に広場 安土城大手門跡前
(滋賀県能登川町)
安土桃山 安土城南側の大手門跡前で、大規模な広場が発見された。大手門の南約44メートルのところに一直線に並ぶ石垣が4箇所発見されたことから、広場は推定東西100メートル南北44メートルとされる。戦国時代の城としては例がないことから、信長が天皇を出迎えるために設けたのでは、とみられる。【安土城郭調査研究所発表】
2005年
8月
黒曜石の加工跡 高原山
(栃木県矢板市)
旧石器 高原山山頂付近で、黒曜石を加工した跡とみられる遺跡が発見された。高原山は黒曜石の産地として知られてきたが、加工跡がみつかったのは本州では初めて。【矢板市教育委員会発表】
2005年
9月
最古の石組み人工池 観覚寺遺跡
(奈良県高取町)
古墳 古代渡来系豪族の東漢氏の拠点集落とされる観覚寺遺跡で、石組みの人工方形池跡が出土した。縁は人の頭ほどの石で組まれ、底にも石が敷かれていた。近くから建物跡がみつかっていることから、生活に使う水をためる池だったとみられている。【高取町教育委員会発表】
2005年
9月
阿弥陀如来坐像の台座からガラス玉 平等院鳳凰堂
(京都府宇治市)
平安 平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の台座から、螺鈿やガラス玉などがみつかった。坐像の上の天蓋に飾られていた装飾品の一部とみられ、外れたか外した後に紛失しないよう台座に納められたらしい。平安時代のきらびやかな装飾のようすがうかがえる資料である。【平等院発表】
2005年
10月
長岡京に楼閣の跡 朝堂院南面
(京都府向日市)
奈良 長岡京の主要施設「朝堂院」で楼閣の跡が確認された。桓武天皇が権威を高めるため、唐の建築様式を取り入れたとみられる。平安遷都への「副都」という見方は見直され、本格的な都として造られたことがうかがえるとされる。【向日市埋蔵文化財センター発表】
2005年
11月
国内最古の木製食器皿 東名遺跡
(佐賀県佐賀市)
縄文 2005年5月に縄文時代初期の貝塚がみつかった東名遺跡から、約7000年前のものとみられる木製食器が出土した。両側に取っ手がある皿など5点が発見され、材質は現在調査中。【佐賀市教育委員会発表】
2005年
11月
蘇我入鹿邸跡? 甘樫丘東麓遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 掘立て柱建物5棟や堀の遺構がみつかり、蘇我入鹿の邸宅跡の可能性が高いとみられる。建物が甘樫丘を造成して建てられ、焼けた壁材や木材などがみつかったことから、「日本書紀」の記述を裏付けるものとして注目されている。【奈良文化財研究所発表】
2004年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2004年
2月
人物像が描かれた大刀 吉備塚古墳
(奈良県奈良市)
古墳 刀や飾りに神をイメージしたとみられる人物像や龍、虎の銀象嵌を施した鉄製環頭大刀が出土した。人物像が描かれた大刀の出土は国内初。【奈良教育大古墳調査委員会発表】
2004年
3月
天武天皇の正殿? 飛鳥京跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 天武天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮」の正殿とみられる大型高床式建物跡と、精巧な石敷き広場が発見された。橿原考古学研究所発表】
2004年
3月
蘇我馬子邸宅跡? 島庄遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 大小9棟以上の掘っ立て柱建物跡が出土した。その規模から蘇我馬子の邸宅跡とみられる。明日香村教育委員会発表】
2004年
3月
土器に「久」の文字 市野谷宮尻遺跡
(千葉県流山市)
古墳 表面に「久」と読める文字が筆で書かれた、古墳時代前期の土器がみつかった。三重県の貝蔵遺跡で発掘された最古の墨書に匹敵する、早い段階の文字ではないかとされる。【千葉県教育委員会発表】
2004年
4月
矛を持つトラ像 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
古墳 文化庁による本格調査で、初めて壁画を赤外線撮影した画像や新たな正面画像を公開した。それにより、東壁に描かれたトラ像は、矛を持っていたことが判明した。【文化庁発表】奈良新聞
2004年
4月
藤原不比等邸宅跡? 法華寺境内
(奈良県奈良市)
飛鳥 法華寺南門付近で旧講堂の基壇とみられる盛り土や凝灰岩などが出土し、その下から宮殿並みの大きさの柱穴(直径約1メートル)がみつかった。「続日本紀」などの記述から、藤原不比等の邸宅跡の一部とみられる。【奈良文化財研究所調査】
2004年
5月
壁画から西アジア産の絵の具 高松塚古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 古墳の壁画に、西アジア産の「ラピスラズリ」を含む絵の具が使用されていたことがわかった。シルクロードから中国を経由した東西の広い交流を実証する資料として注目されている。【東京文化財団調査】飛鳥資料館
2004年
5月
鉄やじりと人骨 林ノ前遺跡
(青森県八戸市)
平安 約200点の鉄やじりと埋葬されていない10体の人骨が出土した。平地を避けてつくられた集落が、敵の襲撃に備えたものだったことが確定的になった。【青森県埋蔵文化財センター調査】
2004年
6月
被葬者?の骨と歯 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
古墳 石室内から被葬者のものとみられる人の頭の骨の一部や、歯などが出土した。鑑定すれば年齢や性別が判明する可能性がある。文化庁発表】
2004年
7月
伊能忠敬の地図 江戸 「大日本沿海輿地全図」の大図のうち、所在不明だった4枚が海上保安庁の保管庫で発見された。これで214枚全部が揃い、地図の全容が明らかになった。
2004年
9月
墳丘全面に張り石された方墳 ドント垣内古墳群
(奈良県御所市)
古墳 水田下からみつかった3基の古墳のうち、墳丘が残っていた1基が石で覆われていた。墳丘全面を石で覆う例は極めて珍しい。【橿原考古学研究所発表】
2004年
9月
大刀の鞘に七星模様 武蔵府中熊野神社古墳
(東京都府中市)
古墳 七つの星(七曜)の模様などが刻まれた、鉄地の大刀の鞘尻が発見された。国内最古の銅銭とされる「富本銭」などでも同じ模様が描かれているが、鞘尻に施されているのは初めて。【府中市教育委員会発表】
2004年
11月
計画的配列の建物群 池上曽根遺跡
(大阪府和泉市・泉大津市)
弥生 弥生時代の環濠集落から、東西に計画的に配列された倉庫と推定される高床式建物跡が4棟発見された。方位を意識して整然と並べられた建物群の配置が確認された最古級の例。大阪府文化財センター発表】
2004年
12月
高温で変色した最古の壁画片 法隆寺
(奈良県斑鳩町)
飛鳥 日本書紀に記される670年の火事で焼失した、寺の金堂や壁画とみられる破片約60点が出土した。壁画片は約1000度以上の高温にさらされていることがわかり、焼失・再建説を裏付ける物証ともなった。【斑鳩町教育委員会発表】
2004年
12月
「区画」された建物群 下之郷遺跡
(滋賀県守山市)
弥生 環濠集落の中心部に、都市計画をうかがわせる大型建物跡群が出土した。今回出土した掘っ立て柱建物跡3棟と、4年前に発見された遺構と合わせて計5棟が区画されていた。【守山市教育委員会発表】
2003年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2003年
1月
鎌倉の廃寺から庭園跡みつかる 無量寺廃寺跡
(神奈川県鎌倉市)
鎌倉 無量寺廃寺跡から、岩盤をくり抜いて池にしたとみられる庭園跡がみつかった。これは、禅宗庭園の祖といわれる夢窓国師が造営した「瑞泉寺庭園」とほぼ同じ特徴を持っているが、造営年代は瑞泉寺より数十年古いと見られる。【無量寺跡発掘調査団発表】
2003年
2月
唐招提寺の邪鬼は創建当初のもの 唐招提寺
(奈良県奈良市)
奈良 唐招提寺金堂の軒下に据えられている木彫りの邪鬼が、寺の創建時当初のものであることが分かった。邪鬼とは鬼瓦と同様に、魔除けの意味をこめて軒下に据えられているもの。唐招提寺の邪鬼は、従来中世以降の製作と考えられていたが、年輪年代法による調査で、8世紀後半の創建当初のものと分かった。奈良文化財研究所調査】
2003年
2月
弥生時代最大規模の竪穴建物跡 伊勢遺跡
(滋賀県守山市)
弥生 一辺13.6メートル、面積185平方メートルに及ぶ方形の竪穴建物跡がみつかった。弥生時代の方形建物跡では国内最大規模のもの。この建物は大きな屋根を支える棟持ち柱が立っていたと見られ、強大な権力を持つ首長の居館か祭儀場であった可能性があるという。【守山市教育委員会発表】
2003年
2月
日本最古のカレンダー 石神遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 表裏に689年の3・4月の暦を記した木簡がみつかった。暦は「具注暦」とよばれるもので、毎日の吉凶が記されており、国内最古のカレンダーである。木簡は本来横長の板だったと見られ、後に円形に削ってふたとして使用されていたと思われる。奈良文化財研究所発表】
2003年
3月
祭祀用の縄文ワイン 分谷地A遺跡
(新潟県黒川村)
縄文 ヤマザクラをくり抜いた黒色漆塗りの水差しに、縄文時代の果実酒の痕跡が残っていることが分かった。水差しは祭祀用の酒器の可能性が高く、縄文時代に酒が祭祀用に用いられたことを裏付ける資料としては全国で初めてだという。【黒川村教育委員会発表】
2003年
3月
金製の永楽通宝発見 萩藩毛利家屋敷跡遺跡
(東京都港区)
江戸 直径2.5センチの金製の永楽通宝2枚が出土した。永楽通宝は通常銅製で、室町〜江戸初期にかけて流通した明銭である。金製の永楽通宝は、豊臣秀吉が鋳造し、恩賞として大名に与えられたと伝えられている。東京都埋蔵文化財センター
2003年
4月
重文級の水墨画発見 壷阪寺
(奈良県高取町)
安土桃山 壷阪寺所蔵の屏風絵「群馬図」が、安土桃山時代に活躍した水墨画家・雲谷等顔筆によるものであることが分かった。同作品が重要文化財級の価値のある作品だという。【京都国立博物館鑑定】
2003年
4月
菊の御紋入りの陶磁器出土 京都御苑
(京都府京都市)
江戸 天皇家の紋である「菊の御紋」入りの陶磁器が大量に発掘された。みつかった陶磁器は有田焼の碗や皿300点以上で、当時天皇家が公家に下賜した品物とみられる。【京都市埋蔵文化財研究所発表】
2003年
4月
国宝「本願寺本三十六人歌集」の欠落断簡を発見 茨城県内の旧家 平安 これまで存在が未確認だった歌人・藤原兼輔の歌集を書写した「兼輔集」の断簡がみつかった。茨城県内の旧家の蔵からみつかったという。【大東文化大学・高城弘一助教授鑑定】
2003年
5月
7世紀の石敷き遺構みつかる ホラント遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 石を敷きつめた大規模な施設跡がみつかった。宮殿と同格の格の高い役所か豪族の館ではないかとみられている。出土土器などから、7世紀後半に建てられた施設跡ではないかと推定される。奈良県橿原考古学研究所発表】
2003年
5月
弥生時代500年さかのぼる? 弥生 国立歴史民俗博物館の研究グループが、日本の稲作開始起源が定説より約500年さかのぼるという研究結果を発表した。九州北部や朝鮮半島南部から出土した土器などからススを採取し、最新の放射性炭素(14C)年代特定法で分析した結果、弥生時代の始まりは紀元前1000年ごろという結論を出した。しかしこの発表には異論も多く、今後さらなる研究が求められている。【国立歴史民俗博物館発表】
2003年
5月
古墳時代の大規模集落 下田遺跡
(大阪府堺市)
古墳 竪穴住居跡44棟、高床式倉庫21棟の建物跡が発見された。同時にみつかった土器の形状から、4世紀ごろの大規模集落とみられ、当時200人程度が生活していたものと考えられる。【堺市教育委員会発表】
2003年
6月
藤原京の中ツ道みつかる 藤原京跡
(奈良県橿原市・桜井市)
飛鳥 古代の幹線道路である「中ツ道」が発見された。道幅は25メートルにも及び、現在の名神高速道路に匹敵する幅だという。中ツ道は壬申の乱(672年)の際に使用された道で、日本書紀にも記されている。【橿原市教育委員会発表】
2003年
6月
西南戦争で使用された?拳銃出土 熊本城本丸御殿跡
(熊本県熊本市)
明治 西南戦争で使用されたとみられる拳銃1丁がみつかった。拳銃には銃弾1発も残っていたという。西南戦争時、熊本城には熊本鎮台司令長官の谷干城が立てこもっており、拳銃がみつかった本丸御殿跡は熊本鎮台の執務室があった場所の可能性もあるという。【熊本市教育委員会発表】
2003年
7月
馬の全身骨格出土 蔀屋北遺跡
(大阪府四条畷市)
古墳 集落跡から埋葬された馬の全身骨格が出土した。馬の骨は古墳内から出土されることが多く、集落内から出土した例は今回が初めてだという。【大阪府教育委員会発表】
2003年
7月
法隆寺再建説裏付け 法隆寺
(奈良県斑鳩町)
  法隆寺五重塔に663年頃伐採された木が使われていたことが分かった。法隆寺は507年の創建当時のままという説と、『日本書紀』に記述がある670年の焼失後に再建されたという説で意見が分かれていた。今回の発表で焼失年に近い年の木材がみつかったため、法隆寺再建説を裏付けるものとなった。奈良文化財研究所調査】
2003年
8月
勝海舟あての書簡みつかる 東京都多摩市 幕末〜明治 幕臣出身で、のちに東京府知事にもなった大久保一翁(忠寛)ら明治維新に活躍した人物たちが、勝海舟にあてた書簡など30数点がみつかった。幕末から明治維新という激動の時代を伝える貴重な資料だという。【多摩市文化財団調査】
2003年
8月
西郷隆盛の真の肖像画? 大分県日田市 明治 幕末から明治に日田で活躍した文人画家・平野五岳による西郷隆盛の肖像画がみつかった。肖像画は掛け軸に描かれ、平野五岳が西郷に面会を申し込む内容の漢詩も記されている。これまでみつかっている西郷隆盛の肖像画は伝聞をもとに描かれたものといわれ、今回みつかった肖像画は面会した本人によって描かれたものとみられ、貴重な資料といえる。【大谷大学・河内昭圓教授調査】
2003年
9月
箸墓古墳と同時期の古墳? ノムギ古墳
(奈良県天理市)
古墳 大和政権の古墳が集中する大和古墳群のうちの一つであるノムギ古墳が、前方後方墳であることが分かった。大和古墳群は前方後円墳がほとんどで、前方後方墳は数基しかなく、4世紀ごろの築造と考えられている。ノムギ古墳は箸墓古墳と同時期の3世紀後半ごろの築造とみられる。奈良県立橿原考古学研究所発表】
2003年
9月
最大規模のサヌカイト採掘跡 サカイ・平地山両遺跡
(奈良県香芝市)
縄文〜弥生 国内最大のサヌカイトの採掘跡がみつかった。サヌカイトとはガラス質の岩石で、石器の原石として約1万年にもわたって採掘されたと見られる。同遺跡から採掘抗が数百か所みつかっている。【香芝市教育委員会発表】
2003年
9月
良質な勾玉が出土 唐古・鍵遺跡
(奈良県田原本町)
弥生 弥生時代のものとしては最良質のヒスイ製勾玉2点が出土した。ヒスイは新潟県の糸魚川産とみられる。勾玉は、祭祀用の目的で、地中に納めたものとされる。【田原本町教育委員会発表】
2003年
10月
水鳥の埴輪 巣山古墳
(奈良県広陵町)
古墳 巣山古墳の周濠に出島があることが分かり、遺構から、精巧につくられた水鳥の埴輪や家形埴輪など約30点がみつかった。これらの埴輪は被葬者の権力を誇示するために造られたものとみられている。【広陵町教育委員会発表】
2003年
10月
最古級の木彫りの神像出土 青木遺跡
(島根県出雲市)
奈良〜平安 奈良時代後期から平安時代前期ごろの木彫りの神像が発見された。神像は冠をかぶり、笏を持っていることから、役人の姿を模しているものとみられる。島根県埋蔵文化財調査センター発表】
2003年
10月
弥生時代最大級の柱 唐古・鍵遺跡
(奈良県田原本町)
弥生 大型建物の柱穴跡23個と、柱の一部18本がみつかった。柱のうち、最大のものは直径80センチにもなり、弥生時代の遺跡としては国内最大級の発見となった。【田原本町教育委員会発表】
2003年
11月
木簡の「売田券」みつかる 青木遺跡
(島根県出雲市)
奈良 木簡としては国内初の発見となる「売田券」がみつかった。「売田券」は当時の水田売買の際に用いられる文書で、木簡に書かれていたものは例がなかった。木簡には、「借りたもみに利息をつけて返せなかったため、水田で納めた」という内容が書かれている。島根県埋蔵文化財調査センター発表】
2003年
11月
大坂の陣を物語る頭蓋骨 大阪府警本部旧庁舎跡
(大阪府大阪市)
江戸 大坂冬の陣(1614年)のあと、大阪城の堀を埋め立てた際に投げ込まれたと思われる頭蓋骨6個がみつかった。頭蓋骨には、複数の殺傷痕があり、当時の戦の激しさをものがたっている。大阪府文化財センター調査】
2003年
11月
国内最古の定規 石神遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 7世紀後半ごろの国内最古とみられる定規が出土した。役人が公文書を書く際に行間をそろえるために用いられたとみられ、等間隔の目盛りが入っている。奈良文化財研究所発表】
2003年
12月
最古級の「上円下方墳」 熊野神社本殿北側の丘
(東京都府中市)
古墳 7世紀後半までに築造されたとみられる「上円下方墳」がみつかった。「上円下方墳」は古墳時代末期に天皇家や有力豪族の間で築造されたものとみられているが、当時の府中市周辺にはこれまで有力豪族はいないとされてきた。しかし今回の発見で、7世紀後半ごろには、府中にも有力豪族が存在したことを裏付けるものとなった。【府中市教育委員会調査】
2003年
12月
赤穂浪士の討入り・最古の「浮世絵」? 立命館大学
(京都府京都市)
江戸 立命館大学の収集品の中から、国内最古とみられる赤穂浪士の討入りの「浮世絵」がみつかった。作品は討入りの9年後(1711年)に描かれたとみられ、赤穂浪士たちは、当時の人気歌舞伎役者に顔を似せて描かれているという。【立命館大学・赤間亮教授調査】
2003年
12月
国内最古級の旧石器 入口遺跡
(長崎県平戸市)
旧石器 約9万〜10万年前のものとみられる旧石器27点がみつかった。これまで国内最古といわれてきた岩手県金取遺跡の石器と並ぶ最古級の石器である。【平戸市教育委員会発表】
2002年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2002年
1月
最古級の十二支像 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 2001年12月からの調査で、文化庁は、キトラ古墳石室東壁から、トラとみられる顔に武人の衣装を着た「獣頭人身像」が新たにみつかったと発表した。獣頭人身像は青龍の左下に描かれており、被葬者の守護神とみられる。古墳壁画としては東アジア最古のもの。【文化庁発表】
2002年
1月
天平の宝物300点が出土 興福寺
(奈良県奈良市)
奈良 興福寺中金堂の仏像を安置する須弥壇の下から、水晶玉や金板など約300点の宝物が出土した。これらは、奈良時代初めの興福寺創建時に地鎮めの儀式で埋められた「鎮壇具」の一部とみられる。奈良文化財研究所・興福寺発表】
2002年
1月
豊作を願う?家形土器が出土 鳥居松遺跡
(静岡県浜松市)
弥生 環濠集落跡から家形土器の壺がほぼ完全な形で出土した。家をかたどった土器はこれまでに7例みつかっているが、壺状のものは2例目で、今回のものはそれらの中でも最古級とみられる。【浜松市教育委員会発表】
2002年
2月
飛鳥京跡の大池は南北200メートル 飛鳥京跡苑池遺構
(奈良県明日香村)
飛鳥 大池の北端となる護岸が出土し、飛鳥京跡の大池は南北200メートルにもなることが確定した。大池は、天武天皇らが遊んだ「白錦後苑」内の池とみられている。奈良県立橿原考古学研究所発表】
2002年
2月
天文図にカラスの絵? キトラ古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 天井に描かれている天文図の日輪(太陽)内にカラスとみられる像が描かれていることが明らかになった。古代中国では日輪にカラスが住んでいるといわれ、大陸の思想が強く影響しているものと考えられる。【キトラ古墳保存・調査研究委員会 河上委員分析】
2002年
2月
サルの足?4本足の動物埴輪 今城塚古墳
(大阪府高槻市)
古墳 真の継体天皇陵といわれる今城塚古墳で動物の足とみられる埴輪が2点みつかった。5本の指があることから、サルをかたどった珍しい埴輪ではないかと考えられている。【高槻市教育委員会発表】高槻市「インターネット歴史館」
2002年
3月
巨勢氏の墓?巨大石室と石棺 條ウル神古墳
(奈良県御所市)
古墳 奈良県明日香村の石舞台古墳に匹敵する巨大な横穴式石室や石棺がみつかった。墳丘は原型をとどめていないが、100メートル以上と推定される。被葬者は有力豪族の巨勢氏ではないかみられる。【御所市教育委員会発表】
2002年
3月
縄文時代に金属武器使用? 居徳遺跡群
(高知県土佐市)
縄文 縄文時代晩期の遺跡から、矢じりの貫通した人骨や金属器で切られた痕跡のある人骨が発見された。金属製武器を使った痕跡としては国内最古で、集団同士の戦闘行為の痕跡だと発表。しかし、研究者の中には「金属武器の普及はあり得ない時期」として慎重な意見もあり、議論を呼びそうである。奈良文化財研究所発表】
2002年
3月
最古級の定住集落跡 窪A遺跡
(静岡県芝川町)
縄文 縄文草創期(1万1000年前)の定住集落跡がみつかった。調理に使用されたとみられる集石遺構や祭祀跡とみられる配石遺構なども出土した。土器や石器の出土は2万点以上にのぼる。【芝川町教育委員会発表】
2002年
3月
最古の女性肖像画 建仁寺
(京都府京都市)
室町 最古の女性単独の肖像画「総持正傑大師像」が発見された。1379年に描かれたもので、モデルは豊後守護の大友氏泰の母とみられている。【建仁寺】
2002年
4月
天文図に「北極五星」 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 天井に描かれている天文図に、「北極五星」が描かれていることが分かった。「北極五星」は天帝を象徴する北極星を含む星座のこと。しかし、キトラ古墳の星座は星の数が6個あり、中国や朝鮮半島にみられる一般的なものと相違がある。【同志社大学宮島教授研究】
2002年
4月
国内最古の処方せん 飛鳥京跡苑池遺構
(奈良県明日香村)
飛鳥 中国最古の医学書に基づいた、脳卒中に効く漢方薬「西州続命湯」の処方を記した木簡が発見された。遣唐使が中国から持ち帰った当時最新の医療技術とみられる。【奈良県立橿原考古学研究所発表】
2002年
6月
石材を運ぶ?レール跡 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
飛鳥 墳丘南側の石室に通じる道(墓道)に、石材を運ぶためのレール跡が確認された。墓道からは棺や朱雀が描かれている南壁の石材などを運ぶために使用されたとみられる。同様のレール跡は高松塚古墳にもみられるという。【文化庁発表】
2002年
6月
未盗掘の石室 闘鶏山古墳
(大阪府高槻市)
古墳 大変めずらしい完全未盗掘の石室が2基発見された。ファイバースコープで調査したところ、被葬者とみられる頭蓋骨や三角縁神獣鏡や鉄刀などの副葬品が多数みつかった。【高槻市教育委員会発表】高槻市「インターネット歴史館」
2002年
6月
喜多川歌麿の版木 渡辺美術館
(鳥取県鳥取市)
江戸 浮世絵画家の喜多川歌麿の作品「蹴鞠の図」の版木がみつかった。歌麿の版木は別の絵柄が現存しており、今回で3例目。江戸時代当時、浮世絵の版木は消耗品であり、使い古した版木は薪として使用していため、ほとんど残っていないという。この版木は裏面に地蔵菩薩が彫られており、燃やされることなく残ったのではないかと考えられる。【浅野秀剛・千葉市美術館上席学芸員調査】渡辺美術館
2002年
7月
国内最大級の豪族館跡 北谷遺跡
(群馬県群馬町)
古墳 古墳時代後期の大規模な豪族館跡がみつかった。同遺跡に近い「三ツ寺T遺跡」の豪族居館と並ぶ規模だという。堀の幅、内郭部の大きさなどが「三ツ寺T遺跡」とほぼ同じことから、同じ設計図があった可能性もある。【群馬町教育委員会発表】
2002年
7月
魏志倭人伝の「一支国」の王墓? 原の辻遺跡
(長崎県壱岐)
弥生 『魏志』倭人伝に登場する「一支国」の首都といわれている原の辻遺跡で、墓域から鏡片・銅剣・玉類などが多数発見された。この三種は王権の象徴といわれることから、当時この地に特定の王がいたことを示す貴重な資料である。【長崎県教育委員会発表】
2002年
7月
安藤氏一族の墳丘墓? 十三湊遺跡
(青森県市浦村)
室町 中世に栄えた湾岸都市の十三湊遺跡で、直径約8メートルの円形塚が発見された。当時一帯を支配していた安藤氏一族の墓の可能性が高いという。墳丘墓だとすれば、中世のものでは日本最北のものとなる。【青森県・市浦村教育委員会発表】
2002年
8月
聖武天皇の宿舎跡? 滋賀県立膳所高校グラウンド
(滋賀県大津市)
奈良 聖武天皇が740年の行幸で滞在した「禾津頓宮」とみられる建築物跡がみつかった。行幸先の宿泊施設は各地にあったとされるが、遺構の発見は初めて。出土したのは3棟の掘立て柱建物跡で、のちに都となった恭仁京跡の天皇の住居に匹敵する規模のものだという。【滋賀県教育委員会発表】
2002年
8月
石山寺本尊から胎内仏4体 石山寺
(滋賀県大津市)
飛鳥〜天平 石山寺の本尊で秘仏の「木造如意輪観音半跏像」の胎内から、銅造の仏像4体がみつかった。4体のうち1体は飛鳥時代のもので、国内最古級の胎内仏だという。【奈良国立博物館発表】
2002年
8月
幻の太平記絵巻第6巻みつかる 埼玉県立博物館
(埼玉県さいたま市)
江戸 南北朝の動乱を描いた合戦絵巻「太平記絵巻」の第6巻がみつかった。「太平記絵巻」は江戸時代初期の作品で、第6巻は現存が確認されておらず、幻の巻といわれていた。イギリスで行われたオークションで出品されたものを埼玉県が落札し、本物と判断した。→埼玉県立歴史と民俗の博物館
2002年
8月
伊能小図初めての発見 東京国立博物館
(東京都台東区)
江戸 伊能忠敬が製作した「大日本沿海輿地全図」のうち、3枚組の「小図」がみつかった。「小図」は、幕府の天文方である高橋景保が昌平坂学問所へ献上した記録があり、この小図にも学問所の朱印が押されていることが分かった。【東京国立博物館発表】
2002年
9月
国内最大の木造墓室 檍1号墳
(宮崎県宮崎市)
古墳 全長51メートルの前方後円墳「檍1号墳」で、木郭(木棺を収めるための木造でできた墓室)がみつかった。九州で確認されたのは今回が初めて。木郭は幅4メートル、長さ7.2メートル、高さ1.5メートルで、それまで最大といわれていた奈良県のホケノ古墳を上回る規模のものである。【宮崎大学・柳沢一男教授発表】
2002年
9月
縄文時代のサケ漁場 石狩紅葉49遺跡
(北海道石狩市)
縄文 河川跡に仕掛けられた「柵」の遺構が17基発見された。この「柵」はサケなどの魚を捕獲する漁労用に使用されたとみられる。河川漁労の遺構としては、国内最古で最大のものと見られる。
2002年
10月
三仏寺投入堂は二代目 三仏寺
(鳥取県三朝町)
平安 断崖に投入れたようなお堂の形で有名な三仏寺投入堂に、平安中期ごろ建立の「初代」があったことが分かった。現在の投入堂は平安後期の建築だが、投入堂内に安置されている蔵王権現像の年代調査で、像の制作が平安中期ごろと判明し、投入堂自体も同時期に初代が建立されていたことが分かった。【奈良文化財研究所・奈良国立博物館調査】
2002年
10月
国内最大級の環状盛り土 井野長割遺跡
(千葉県佐倉市)
縄文 直径160メートルにも及ぶ国内最大級の環状盛り土遺構が確認された。盛り土内からは、シジミを中心とした貝塚や、土器の破片が多数発見された「土器塚」、竪穴住居跡、土偶や石棒など祭祀に使用された遺物等もみつかった。印旛郡市文化財センター調査】
2002年
11月
人が乗った船形埴輪 殿村遺跡
(長野県飯田市)
古墳 人が船に乗って舵取りをしているとみられる埴輪がみつかった。船形埴輪は全国で約30個出土例があるが、人と一体となったものは全国でも例がないという。発見された埴輪は、死者の魂を来世へ運ぶ「船葬」の観念を示す一級資料とのこと。【飯田市教育委員会発表】
2002年
11月
最古級の前方後円墳? マバカ古墳
(奈良県天理市)
古墳 マバカ古墳の前方部に沿う溝から、3世紀中期ごろとみられる土器の破片がみつかった。出土した土器は庄内式とよばれる土師器の破片約3000点。今回の発見で、従来から卑弥呼の墓といわれてきた箸墓古墳よりも古い古墳の可能性が高くなったという。奈良県立橿原考古学研究所
2002年
11月
美しい水晶の五輪塔 達磨寺
(奈良県王寺町)
鎌倉 達磨寺本堂床下の石室から、高さ約2.5センチの水晶製の五輪塔がみつかった。五輪塔の中からは約3ミリの水晶製の仏舎利もみつかった。五輪塔は透明度が高く、大変精巧に造られたものだという。【王寺町教育委員会・奈良県立橿原考古学研究所発表】
2002年
11月
戸籍が書かれた最古の木簡 石神遺跡
(奈良県明日香村)
飛鳥 古代の地方行政単位「国、評、五十戸(里)」が記された木簡としては最古のものが出土した。木簡は665年の天智天皇時代に書かれたものとみられ、最初の戸籍である「庚午年籍」より5年前にあたる。今回の発見は、律令国家体制が整っていく過程を示す資料として注目されている。奈良文化財研究所発表】
2002年
12月
聖武天皇の銅鋳造工房跡 鍛冶屋敷遺跡
(滋賀県信楽町)
奈良 紫香楽宮跡近くで、聖武天皇の命による大規模銅鋳造工房跡がみつかった。遺跡からは溶解炉、たたら、鋳込み場など古代の大鋳造施設跡がみつかった。聖武天皇が743年に紫香楽宮で出したといわれる「大仏建立の詔」を裏付ける貴重な発見となった。【滋賀県教育委員会発表】
2002年
12月
飛鳥京の砦跡 森カシ谷遺跡
(奈良県高取町)
奈良 丘陵上に建立された物見櫓や大型の竪穴式建物跡など、古代の砦跡がみつかった。施設の周囲には三重の柵を巡らせ、侵入者を防ぐための逆茂木や投石用の石もみつかっている。遺跡は7世紀後半のものとみられ、壬申の乱(672年)と時代が重なることから、飛鳥京を防御する砦であった可能性が高いという。【高取町教育委員会発表】
2002年
12月
国内最古の短剣のさや 川崎遺跡
(滋賀県長浜市)
弥生 環濠集落の同遺跡で、鮮やかな赤と黒の漆塗りが施された短剣のさや部分が発見された。さやには古代中国から使用されている「雷文」という文様が刻まれている。短剣はこの地の有力者が権威の象徴として身につけていたものと考えられる。【長浜市教育委員会発表】
2001年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2001年
2月
法隆寺・五重塔の心柱 法隆寺
(奈良県斑鳩町)
  世界最古の木造建築の法隆寺・五重塔の心柱が、年輪年代測定によって594年に伐採されたものだとわかった。607年創建とされる同寺は、火事で焼失後、8世紀に再建されたというのが定説。心柱の伐採が建立より100年前となり、古い建物からの転用か、再建時期が早まるか、などと波紋を広げている。奈良国立文化財研究所発表】
2001年
4月
弥生人の脳 青谷上寺地遺跡
(鳥取県青谷町)
弥生 青谷上寺地遺跡から出土した弥生人3体分から脳がみつかった。同時代の脳組織が分析可能な状態でみつかったのは、国内初。日本人の起源など、多彩な情報が得られると期待されている。鳥取県教育文化財団発表】
2001年
4月
キトラ古墳の朱雀壁画 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
7世紀末
〜8世紀初め
キトラ古墳の石槨南壁から、古代中国の「四神」の一つ、朱雀の壁画が発見された。すでに他の三方の壁に、四神の玄武、白虎、青龍が発見されており、四神がそろった日本初の古墳となった。【キトラ古墳学術調査団発表】
2001年
5月
邪馬台国の時代に古墳? 勝山古墳
(奈良県桜井市)
3世紀 勝山古墳から出土した木製品を年輪年代法で測定した結果、同古墳の築造が3世紀初頭と判明した。古墳の出現が従来の説よりも半世紀もさかのぼることになり、邪馬台国の時代にすでに古墳が築造されていたことになる。橿原考古学研究所発表】
2001年
6月
藤原京跡から木簡1200点出土 藤原京跡
(奈良県橿原市)
飛鳥 藤原京(694〜710年)の跡地から、天皇の秘書的な仕事をする「中務省」に関するものを中心に、1200点の木簡が出土した。大宝律令が701年に制定されており、律令国家初期の行政システムに迫る発見である。【奈良文化財研究所発表】
2001年
7月
伊能忠敬の地図、アメリカで発見 江戸 伊能忠敬が中心となって完成させた「大日本沿海輿地全図」の大図214枚のうち、206枚の原寸大の写しがアメリカで発見された。未発見の約140枚が含まれており、忠敬の測量の全容が明らかになった。【日本国際地図学会などが発表】
2001年
9月
国内最大の家形埴輪 今城塚古墳
(大阪府高槻市)
古墳 継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳(6世紀前半)から、推定で高さ170センチの国内最大の家形埴輪を含む埴輪群がみつかった。大王(継体天皇)の葬送儀式の実態に迫るものとして、注目されている。【高槻市立埋蔵文化財調査センター発表】
2001年
10月
元寇の武器「てつはう」引き揚げ 長崎県鷹島町 鎌倉 元寇(1281年)で元軍の船団が沈没したとされる鷹島町沖の海底から、元寇船の外板、マストの台などの部材や、矢の束などの武器がみつかった。また、元軍が使ったともられる火薬武器「てつはう(てっぽう)」が完全な形で初めてみつかった。【鷹島町教育委員会発表】
2001年
12月
キトラ古墳に金ぱくの北斗七星 キトラ古墳
(奈良県明日香村)
7世紀末
〜8世紀初め
キトラ古墳の石槨天井に描かれた天文図のうち、北斗七星などが金ぱくで表現されていたことが判明した。文化庁調査による】
2000年※所在地名は発掘・発見当時のものです。
発表
年・月
名  称 所在地 時 代 解  説
2000年
1月
日本列島最北の縄文人 船泊遺跡
(北海道礼文島)
縄文 船泊遺跡から発掘された人骨を、国立科学博物館人類研究部が分析した結果、本州から分布する縄文人の最北の集団であることが明らかになった。船泊遺跡の縄文人は、アジア大陸北方の人の要素が混じる可能性も、以前は考えられていた。国立科学博物館発表】
2000年
2月
長岡京に離宮跡 長岡京
(京都府向日、京都両市境)
古代 桓武天皇が造営した長岡京で、約10ヘクタールに及ぶ離宮が発掘された。これまで発掘された古代の離宮では最大。約10年間(784〜794年)と短命だった都のイメージを変えそうだ。向日市埋蔵文化財センターと古代学協会発表】
2000年
3月
日本最古の古墳 ホケノ山古墳
(奈良県桜井市)
3世紀 ホケノ山古墳が3世紀中ごろに築造された、最古の前方後円墳と確認された。3世紀の後半に初めて古墳が出現したとされてきたが、ホケノ山古墳は定説を20〜30年さかのぼり、邪馬台国の時代に築造されたことになる。【大和古墳群調査委員会発表】
2000年
4月
国内最大の船形埴輪 宝塚1号墳
(三重県松坂市)
古墳 宝塚1号墳から、国内最大の船形埴輪が出土した。埴輪は全長140センチ、高さ90センチ、最大幅25センチ。大刀、威杖など王権を象徴するさまざまな道具で飾られている。【松坂市教育委員会発表】
2000年
5月
平安時代の太刀 春日大社
(奈良県奈良市)
平安 春日大社の若宮社殿で、螺鈿や銀板で豪華な装飾を施した太刀がみつかった。同神社が創建された1135年に、前関白の藤原忠実(1078〜1162年)が奉納したものと見られる。春日大社と河田貞・帝塚山大教授らが発表】
2000年
6月
小規模古墳から豪華な副葬品 鴨都波古墳
(奈良県御所市)
古墳 鴨都波1号墳から三角縁神獣鏡4枚や剣、玉類など多彩な副葬品が出土した。小規模な方墳にしては副葬品が豊富で、後の5世紀の有力豪族、葛城氏と関係のある有力者の墓とみられる。【御所市教育委員会発表】
2000年
7月
弥生時代の人骨に武器傷 青谷上寺地遺跡
(鳥取県青谷町)
弥生 青谷上寺地遺跡で発掘した、弥生時代後半(2世紀)の人骨約4000点(約53体分)のうち、少なくとも89点(約10体分)に武器での致命傷があった。埋葬された形跡はなく、初めてみつかった「弥生の戦場」の可能性が高い。中国の歴史書『後漢書東夷伝』には「倭国大乱」の記述がある。鳥取県埋蔵文化財センター発表】
2000年
8月
推古天皇と皇子の墓か? 植山古墳
(奈良県橿原市)
飛鳥 植山古墳から6世紀末と7世紀前半の巨大な石室がみつかった。時期や場所、規模から考えて推古天皇と、その息子の竹田皇子が合葬された可能性が高い。【橿原市教育委員会発表】
2000年
9月
平安時代の農民心得 加茂遺跡
(石川県津幡町)
平安 加茂遺跡から、平安時代に政府の禁令などを伝えるために街道沿いに掲示された木製の札が出土した。農民は朝4時に農作業に出かけ、午後8時頃家へ帰ること、など8カ条の「農民心得」が記されている。石川県埋蔵文化財センター
2000年
10月
平安時代の雅楽器 春日大社
(奈良県奈良市)
平安 春日大社の若宮神社社殿から、平安時代後期の楽器、笙と和琴がみつかった。奈良時代の正倉院宝物に次ぐ古い特徴のもので、雅楽器の歴史を探る貴重な資料。【春日大社発表】
2000年
11月
紫香楽宮の遺構 宮町遺跡
(滋賀県信楽町)
奈良 聖武天皇が造営した紫香楽宮(742〜745年)とされる宮町遺跡で、全長90メートルを越す巨大な掘っ立て柱建物跡がみつかった。国家的な儀式を行う朝堂とみられるが、建物の大きさは奈良・平城京級の規模。短命で、離宮との説もあった紫香楽宮が本格的な都市機能を備えていたことがわかった。【信楽町教育委員会と滋賀県教育委員会発表】
2000年
12月
縄文時代は階層社会? 真脇遺跡
(石川県能都町)
縄文 縄文時代中期の真脇遺跡で、地面を掘って板を敷いた墓がみつかった。ほかの人と区別して手厚く葬ったと考えられ、縄文時代の階層化を示す発見とみられる。【能都町教育委員会発表】



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【 高等学校副教材 】

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新編 史料日本史 探究の解説(表紙)
日本史のライブラリー(表紙)
日本史のアーカイブ(表紙)
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世界史のミュージアム
世界史のパビリオン
Winning COM.-PASS 世界史の整理と演習
問いからはじまる歴史総合
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【 中学校副教材 】

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日本遺産(表紙)
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