発表 年・月 |
名 称 |
所在地 |
時 代 |
解 説 |
2022年 1月 |
江戸幕府の銀貨公印が京都で発見 |
京都府京都市下京区 「御土居」の濠跡 |
江戸 |
京都市内の発掘調査で、江戸幕府の銀貨「慶長丁銀」の偽造防止用の公印「極印(ごくいん)」の鉄製はんこが見つかった。銀座(鋳造所)からの持ち出し厳禁、廃棄時は溶解処分されるもので、実物の発見は今回が初めてとなる。極印は532グラム、全長11.3センチメートル、印面は幅3.4センチメートル、縦1.7センチメートル。米俵を担ぎ小槌を持った大黒天の像と「常是」の文字が刻まれており、銀貨製造の責任者が名乗る「大黒常是」由来とみられる。発見場所と銀座が約2.5キロメートル離れていることから、故意に持ち出され偽金製造に使われたのではないかとする見方がある。【京都市埋蔵文化財研究所発表】 |
2022年 2月 |
縄文時代でも戦闘の可能性、頭に傷痕を持つ縄文人の頭蓋骨 |
有珠(うす)モシリ遺跡 (北海道伊達市有珠町) |
縄文 |
北海道伊達市の「有珠モシリ遺跡」から、集団間の争いが原因とみられる傷痕を持つ、縄文時代の頭蓋骨が複数見つかった。約2400〜2500年前の骨であり、全11体が同じ場所に埋葬されていたが、別々に埋葬されていた遺体を一度掘り起こして同じ墓に埋葬した痕跡があり、争いで亡くなった人をひとまとめにした可能性がある。11体は歯の特徴などから親族とみられ、8体の頭蓋骨には切られたり殴られたりしたとみられる痕があった。集団間の大きな争いは、稲作が本格化する弥生時代からとされてきた。同時期に、弥生時代に移行していた西日本の鳥取市「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」でも、戦闘による複数の人骨が発見されている。【東北芸術工科大(山形市)などの研究グループ発表】 |
2022年 2月 |
クマの歯を加工したアイヌ装飾品―青森にて国内初の出土 |
聖寿寺館跡(しょうじゅじたてあと) (青森県三戸郡南部町) |
室町 |
北東北最大の戦国大名・三戸南部氏が15世紀前半〜16世紀前半に拠点を置いた城館跡「聖寿寺館跡」から、クマの犬歯(牙)を加工した中世アイヌ文化の装飾品が出土した。長さ6.8センチメートル、幅2.2センチメートルで、中央に紐を通すための穴が開いており、小刀のさやに付ける装飾として使われたとみられる。クマを加工した装飾品の出土は北海道上ノ国町の「勝山館跡(かつやまだてあと)」(15世紀後半〜16世紀)に次いで2例目であり、本州では初めてのこと。また聖寿寺館跡ではアイヌの人々が使用した骨製の道具が多数見つかっており、アイヌの人々が城館の中で長期的に滞在していた可能性が高いとみられている。【南部町教育委員会発表】 |
2022年 3月 |
日本初の欧州駐在外交官による、岩倉具視宛ての書簡発見 |
京都府立京都学・歴彩館 (京都府京都市左京区) |
明治 |
ヨーロッパ駐在の外交官から岩倉具視に送られた書簡が発見された。送り主である鮫島尚信(1845〜80年)は、欧州での「岩倉使節団」の実務に携わった外交官。書簡には、カトリック弾圧を試みるドイツ宰相ビスマルクとローマ教皇の対立を報じた新聞の翻訳など、現地の宗教や政治について正確性の高い情報が書かれていた。キリスト教の弾圧が国際問題となっていた明治政府に、ヨーロッパにおける宗教情勢を伝えた。当時の外交官の実務や、宗教情勢についての貴重な史料となる。【京都新聞による】 |
2022年 3月 |
真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうさえもん)は二人いた?―大太刀を振るう戦国時代の豪傑 |
福井県立歴史博物館 (福井県福井市) |
室町 |
朝倉義景に仕えた戦国武将・真柄十郎左衛門の新資料を、福井県立歴史博物館が発見した。十郎左衛門の名は直隆で、約3メートルの大太刀を振るう、身長約2メートルの豪傑と伝えられている。新資料は十郎左衛門の子孫が記した「真柄氏家記覚書」。この資料から、十郎左衛門は直隆の父・家正がもともと名乗った名であり、のちに直隆に譲ったと判明。父子の実績が一体化され、一人の人物として伝承されていたことがわかった。また大太刀を振るう兵法は直隆の祖父が創始者であり、一族で相伝していたと確認された。十郎左衛門が使用したとされる大太刀が全国各地に何本か存在しているのも、不自然ではないと考えられる。【福井県立歴史博物館発表】 |
2022年 5月 |
朝鮮撤兵を指示する、徳川家康の書状原本が見つかる |
個人 |
安土・桃山 |
豊臣秀吉の行った朝鮮出兵にて、九州で指揮を執っていた浅野長政に対し、滞りなく撤兵できるよう徳川家康が指示した内容の書状原本が発見された。秀吉没後の政権運営を、家康が五大老の一人として受け持っていた様子が伺える。書状は1598(慶長3)年11月3日付で、長政からの手紙に返信する内容だった。書状の存在自体は写しで知られていたが、原本が確認されたのは今回が初。写しにはない「参着可申候(到着するでしょう)」の5文字も記されていた。専門家は「前段のやりとりは不明だが、撤退に際し兵を運ぶ船など準備されていたのでは」と推測する。【愛知県岡崎市美術博物館発表】 |
2022年 5月 |
沖縄の古墳群からルーツの異なる人骨3体 |
神座原(かんざばる)古墓群 (沖縄県南城市) |
室町〜江戸 |
「神座原古墓群」を調査したチームは、納骨堂内にあった古い人骨3体をDNA分析した結果、それぞれ日本、朝鮮半島、ヨーロッパに由来していたと明らかにした。古墳群は1992年に取り壊されたが、人骨などは近くに新設された納骨堂に納められており、住民からの依頼を受けて研究チームと南城市教育委員会が調査した形。石厨子(いしずし)(骨を納める器)に納められていた人骨3体は成人男性とみられ、母系の遺伝を辿ることができるミトコンドリアDNA解析の結果、それぞれ異なる系譜であることが判明。また同じ石厨子に納められるのは血縁関係にあった人の骨であり、母系の異なる人が沖縄で血縁関係を結び、定住していた可能性がある。琉球王国時代(1429〜1879年)における海外との人的交流が伺える。【山口県下関市土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長らの研究チーム発表】 |
2022年 6月 |
弥生時代の「糸玉」、全国初の出土 |
南蔵本(みなみくらもと)遺跡 (徳島県徳島市南蔵本町) |
弥生 |
弥生時代前期前葉期(紀元前5〜6世紀ごろ)の地層から、麻の糸を束ねた「糸玉」が出土した。糸玉は長さ6.2センチメートル、幅4.5センチメートル、厚さ8ミリメートル。麻の茎から採った繊維2本を撚って糸状にしたものを束ねてあり、水銀朱と呼ばれる赤い顔料を混ぜた漆が表面に塗られていた。用途は不明だが、装飾品や装身具として使われていたと考えられる。糸玉はこれまで12例発見されていたが、すべて縄文時代の遺跡から。今回の出土例は中四国地方以西で初めてであり、弥生時代の遺構から発見されたのは全国で初となる。【徳島県埋蔵文化財センター発表】 |
2022年 6月 |
延暦寺の8仏像、焼き打ちを逃れた仏像と判明 |
天台宗総本山比叡山延暦寺 (滋賀県大津市) |
室町 |
比叡山延暦寺の国宝・根本中堂(こんぽんちゅうどう)に現存する複数の仏像が、鎌倉時代に制作されたものであることがわかった。根本中堂は1571年に織田信長の「比叡山焼き打ち」で焼失しており、江戸時代に行われた再建時に仏像も作り直されたとみられていた。本堂の改修に合わせ14体の仏像を解体・修理しており、修理済みの8体の仏像内部から制作年や仏師の名前といった墨書を確認。残りの仏像も同時期に作られたとみられる。仏像は、本尊である薬師如来の脇に安置される梵天(ぼんてん)1体、帝釈天1体、十二神将立像12体の計14体。【天台宗総本山比叡山延暦寺発表】 |
2022年 7月 |
新たな銭種「饒益神宝(にょうやくしんぽう)」の鋳損じ銭 |
史跡周防鋳銭司(すおうのじゅせんし)跡 (山口県山口市) |
平安 |
平安時代に設置された銭貨鋳造所跡から、「饒益神宝」という銅銭の鋳損じ銭が初めて見つかった。元興寺文化財研究所でエックス線CT撮影をしたところ「饒」の文字を確認、また磨かれず残った余分なでっぱりが金属片にあることから鋳損じ銭と判明した。縦8.4ミリメートル、横14.4ミリメートル、厚さ1.2ミリメートルの金属片で、貨幣上部の一部とみられる。文献から、饒益神宝は859(貞観元)年から870(同12)年に生産。同跡ではこれまで年代も種類も異なる鋳損じ銭が2種見つかっており、史料上の初鋳年から最長で35年、生産を継続していた可能性がある。継続的に銭貨が造られていたことが改めて裏付けられた。【山口市・山口大学発表】 |
2022年 7月 |
弥生時代最古の石製指輪 |
八日市地方(ようかいちじかた)遺跡 (石川県小松市) |
弥生 |
北陸随一の大規模環濠(かんごう)集落遺跡にて、弥生時代中期の石製指輪が発見された。指輪は半分が欠損しているが、緑色凝灰岩製で淡緑色、円形に復元すると内径16ミリメートル、外径23.2ミリメートルとなり、幅は2.5〜3ミリメートル。2200〜2300年前に作られたとみられ、これまで発見された弥生時代の石製指輪において国内最古となる。指輪に直径1ミリメートル程度の穴があることから、欠けた後も装身具として使用していたとみられる。指輪は真円ともいえる形に加工されており、当時の高い技術力がうかがえる。【小松市埋蔵文化財センター発表】 |
2022年 8月 |
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)で、「後殿」とみられる基壇を発見 |
藤原宮跡 (奈良県橿原市) |
飛鳥 |
天皇が政治や儀式を執り行ったとされる藤原宮(694〜710年)跡の大極殿の北側から、基壇(建物の土台)跡が初めて見つかった。天皇が身支度などする「後殿」とみられる。大極殿の北側565平方メートルを発掘し発見、基壇はこれまでの調査と合わせ東西約50メートル、南北約16メートルの規模となる。西側に伸びる回廊跡も見つかり、後殿の両端と回廊が繋がっていたとみられる。後に造営された平城宮に大極殿後殿、平安宮にも大極殿北部に小安殿と呼ばれた施設があり、藤原宮の後殿に倣った可能性があるとして、今回の発掘は宮殿の構造比較や変遷について考察する上で重要な発見となった。【奈良文化財研究所発表】 |
2022年 8月 |
2000年以上前から繁栄か―平安京の水運拠点「淀津(よどつ)」 |
長岡京跡・淀水垂大下津(よどみずたれおおしもづ)町遺跡 (京都府京都市) |
弥生〜明治 |
かつて京都の玄関口として栄えた川港「淀津」の遺構が発見された。平安時代の史書『日本後紀』に名前が登場する淀津は、平安京の南約10キロメートルに位置する。桂川、宇治川、木津川が合流する淀川の起点であり、都に届ける物資が集まったとされた。発掘調査では、弥生期から明治期までの2000年におよぶ10地層(厚さ約3メートル)を確認。平安期の地層から国内外の土器や陶磁器の破片が多数見つかったことから「淀津」と判断された。また弥生期の地層からは土器などが出土し、淀津が2000年以上前から流通の拠点として繁栄していたことがわかった。【京都市埋蔵文化財研究所発表】 |
2022年 8月 |
石田三成の居城跡に大規模な外堀 |
佐和山(さわやま)城跡 (滋賀県彦根市) |
安土・桃山 |
石田三成(1560〜1600年)の居城として知られる佐和山城跡で、外堀の一部とみられる巨大な溝が見つかった。溝は全長約7メートル、幅約10メートル、深さ約70センチメートルだが、江戸時代以降に上部が削られており、当時の深さは約1メートルとされる。溝から16世紀末〜17世紀初めの陶磁器などが見つかり、三成が城主の時代に掘られたと推定。三成が城主となった1595年の翌年に記された書状に、城下町整備を指す「佐和山惣構御普請(そうがまえごふしん)」の記述があり、外堀も整備のひとつとして造られたとみられる。城下町を囲むよう掘られた外堀は「惣構」と呼ばれ、豊臣政権下での重臣の城で発見されたのは初めてではないかと専門家は指摘する。【滋賀県文化財保護協会発表】 |
2022年 8月 |
年間329日出勤―平城宮の女官を勤務評価した「木簡」出土 |
平城宮跡 (奈良県奈良市) |
奈良 |
天皇の身の回りを世話していた、女性役人である「女官」の勤務評価が記された木簡が初めて発見された。木簡は長さ約17センチメートル、幅約3センチメートル。女性を意味する「牟須売(むすめ)」の文字や、年齢を示す「年五十九」、年間の出勤日数とみられる「日参佰弐拾玖(329日)」が墨で書かれ、評価や官職が書いてあったとされる上部は見つからなかった。都で働く役人は月に原則5日の休日を取ることが決められており、これまで見つかった男性役人の木簡も年間300日未満の勤務が大半。専門家は「当時でもハードワークであり、休みづらい役職にあったのかもしれない。奈良時代における女官の実態を知るきっかけになるのでは」と話す。【奈良文化財研究所発表】 |
2022年 9月 |
比叡辻(ひえいつじ)遺跡初の発掘調査、中世・坂本の集落跡が見つかる |
比叡辻遺跡 (滋賀県大津市) |
鎌倉〜室町 |
琵琶湖岸に広がる遺跡にて、中世(鎌倉から室町時代)の集落跡が確認された。集落跡は比叡山延暦寺の麓に位置した流通拠点「坂本」にあり、文献から周辺地域が栄えていたことが知られている。約1800平方メートルを調査し、建物の柱が乗る礎石や、香道で用いる青磁の香炉、茶道具である風炉(ふろ)や天目茶碗などが見つかった。礎石に柱を乗せる建築は庶民の住居には見られず、また香道や茶の湯といった貴族層を中心とする遊びの出土品から、文化水準の高い人々が住んでいたと推測される。平安後期、湖の港に運ばれた荷を運ぶ業者「馬借(ばしゃく)」や「車借(しゃしゃく)」が居住し流通の拠点として繁栄、また1467年の応仁の乱によって京都の寺社や貴族が避難し、そのまま住んでいたとみられる。中世・坂本の繁栄が裏付けられる発見となった。【大津市文化財保護課発表】 |
2022年 9月 |
津軽平野の過度期を示す発見、弥生時代の竪穴住居跡 |
清水森西遺跡 (青森県弘前市) |
弥生 |
弥生時代中期初頭(2200〜2100年前)の遺跡から、竪穴住居4軒など集落跡が見つかった。住居は最大で直径約8メートルの比較的大型、10〜20軒に30〜50人が住んでいたと推測され、稲作規模の拡大により集落も大型化していったとみられる。田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡(同時代中期、2100年前)で、大規模な稲作が始まるまでの過度期を示す発見となる。今回調査した清水森西遺跡は、東北最古の水田跡が見つかった同市の砂沢遺跡(同時代前期、2300年前)と、約650枚の水田跡が見つかった垂柳遺跡の間の時期に栄えた遺跡。津軽平野における水稲耕作や弥生文化の広がりの解明が今後も期待される。【弘前大学北日本考古学研究センター発表】 |
2022年 10月 |
「倭歌(やまとうた)」最古の表記、平城宮跡から木簡 |
平城宮跡 (奈良県奈良市) |
奈良 |
奈良時代前半のものとみられる木簡に、「倭歌」という文字が発見された。木簡は長さ30.1センチメートル、幅3.1センチメートル、厚さ6ミリメートルで、歌の一部とみられる言葉も書かれている。平城宮跡東の排水路で見つかった。「倭歌」は漢詩に対する日本古来の歌を意味。「奈良時代は中国文化を積極的に取り入れながら、新しい国や文化を作る力にあふれていた時代では」と専門家は話す。これまで「やまとうた」は平安時代の『古今和歌集』での表記が最古の例とされていた。奈良時代末に成立したとされる『万葉集』で「倭歌」の表記は見られたが、後世の写本で「唱和・応答する歌」を意味する「和歌」と表記する例も複数あり、「やまとうた」という意味で「倭歌」の表記が使われていたのか、事実として確認できていなかった。今回の木簡は「やまとうた」を示す最古の例とみられる。【奈良文化財研究所発表】 |
2022年 11月 |
縄文期の墓の特徴を持つ弥生期の環状土坑群を発見 |
立塚(たちづか)遺跡 (鹿児島県鹿屋市) |
弥生 |
弥生時代早期(約2800年前)の墓とみられる、環状(楕円状)に配置された土坑群が見つかった。30基以上ある土坑は縦横が約0.8×0.5メートル〜6.5×1.3メートル、深さは約0.7〜0.8メートルの大きさで、長方形や方形がよく見られる。土坑群のひとつは60×40メートルの楕円形で、もうひとつは調査中により規模不明。環状に配置した墓群は縄文時代の特徴とされ、縄文時代の精神文化を受け継いだ、南九州独特の埋葬と考えられる。弥生時代の環状土坑墓群はこれまで見つかっていない。また弥生時代初頭の墓の作り方は未知の点が多く、今後の研究の指標となる。【鹿児島県立埋蔵文化財センター発表】 |
2022年 12月 |
世界遺産の古墳群から、国内最大の3.5メートル「木製埴輪」 |
峯ケ塚(みねがづか)古墳 (大阪府羽曳野市) |
古墳 |
国内最大となる木製埴輪が、峯ケ塚古墳から出土した。長さは3.52メートル、幅75センチメートル、厚み8センチメートル。当時貴重な木材とされた高野槙(こうやまき)で作成されている。種類は「石見(いわみ)型木製品」で、権威の象徴や邪気を払うとされる玉杖(ぎょくじょう)をかたどったとみられる。地面に立てて使う用途のため、現状より1メートルは長かったと考えられる。峯ケ塚古墳は全長96メートルあり、世界遺産の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群を構成する古墳のひとつ。被葬者は墳丘規模や副葬品から、当時トップクラスの大王に準ずる位の人物と推定される。【大阪府羽曳野市教育委員会発表】 |
2022年 12月 |
新たに発見された信玄の書状―川中島の戦いに関わる重要史料 |
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室町 |
戦国武将として名高い武田信玄と上杉謙信が争った、「川中島の戦い」に関する信玄の書状が新たに見つかった。書状には晴信(信玄)の名前と花押があり、晴信から現在の長野市松代町(まつしろまち)東寺尾を拠点とした寺尾刑部少輔に宛てたもので、城を落城させた武功を称え、また上杉勢の動きに対応し自身も進軍すると伝える内容。「最前線にいた武士の戦いぶりがわかる、信州の歴史を振り返るうえで重要な史料」と専門家は話す。書状は縦26センチメートル、横37センチメートルで、京都の古書店が所有。長野県立歴史館は購入のためのクラウドファンディングを募っていたが、2023年3月に無事目標金額を達成した。【長野県立歴史館発表】 |